長駄文館・・・涼朝にキンカチョウ、活発為り。
- 2019/09/03
- 10:37
涼朝に金華鳥、活発為り。(9/3/19)
昨日は雨はパラりと来ただけで、止んで終った。その後の蒸し暑さは、堪えた。午前中の庭作業が在ったので、自転車でホームセンターまで、散歩代わりの買い物をして、隣の大手スーパーで肉、魚類を補充の為に買い、貝ヒモ、アサリのボイルドが在ったので、本日の台所遊びで、甘辛く佃煮風に煮込む事にする。晩飯は生姜焼きにして、精を付けて置く。蒸し暑さに対抗して、風呂に入り洗濯をして置く。
秋の夜長なのスタートとしては、家事も終わり好い感じでコオロギの声を聴く。駄菓子も買って来たので、口寂しさの補充にもなる。寝室のノートパソコンに向かう。機種の違いもSのお陰で使える様になって、部屋の移動も平等に成って居て、部屋其々の雰囲気が在るから、気分転換効果も在る次第で在る。
四畳半、廊下を網戸として居るので、夜気の通りとコオロギの声が、夜の静寂にフィットして居る。こう云う雰囲気が子供の頃から好きで、寂しさを感じないタイプなので、しぶとく元気で居られるのかも知れない。
流石に古希坂住人に為って、テレビは疲れるし、ビデオテープ、DVDの映画見は殆どしなくなって来て居る。今考えると、テレビ見はエネルギー使用量が高かったと云う事で在る。テレビ、新聞から卒業した分、自分の時間が広がって、マイペースのマイタイムがストレス無しの好い方向に向かって居るのだろう。
明けて、本日。さて起きるか。廊下を開けて、お待ちかねの鳥達を軒下に吊るし、昨夜から火を入れたり、浸み込ませたりの貝ヒモとアサリの『ふっくら柔らか炊き』に仕上げる為の火入れとする。味見をして見ると、大分仕上がって来た。へへへの段で在る。
おふくろの味は、何と云っても繰り返し煮込んだ『手間の味』とも云えようか。勿論、付き切りで居る必要は無い。昔は内職は在る物の主婦は家に居たから、鍋に火を掛けてのコトコト煮が一般的で、其々の家庭に『おふくろの味』が定着して居たので在ろう。
タイムトリップすれば、『通い帳』で月払いの雑貨店が地域には在って、食料雑貨の日用品購入は、そんな仕組みで為されて居た。それが高度成長で共稼ぎの社会に成ってパック売り、現金のスーパーが登場して、昔ながらの小店舗はスーパーに物の見事に駆逐されて行った。
次が地場資本スーパーが大手、全国スーパーに取って代わられる時代と成り、車社会下の郊外のメガスーパー、高速道路網の発展により中核都市でのショッピングモールが誕生する様に成った。
所謂、大資本による画一化・大量販売・大規模化の衣食の大量仕入れ・販売のマーケット産業態の時代で在る。安く大量に仕入れる資本力は、当然に世界からの輸入品に支えられて居る構造でも在る。
昔パートタイマー、今、非正規雇用、高学歴化の職業婦人への様替わりで、現役世代では市販物、外食がライフスタイルと成り、家庭料理が影を潜めて仕舞った。中央マスゴミでは、女性の晩婚化、育児の負担化が、恰も男女の不平等に言及されて、少子化歯止め策、労働人口の減少を実質移民策で舵取りし様とする政策ばかりが、正当化されて居る。
そんな次第で知らず知らずの内に、味覚までもが画一化されて終った時代で在る。『コンビニさえ在れば、生きて行かれる』なんて表現も出て来る世で在る。
生活スタイルが便利・安易・手間要らずと為れば、幾ら文科省が国際競争に伍する為の英語力、考える力、想像力の向上を『スローガン化』しようとも、限られた中での創意工夫の知恵も出す必要も無く、その時々の中で便利・安易・手間要らずの部分を部品の様にチョイスするのが、『狭過ぎる創意工夫の領域』に為って仕舞うのは、『水は高きより、低きに流れる』の道理でも在ろう。
災害地を視察する政府高官が、長靴を忘れオンブされる醜態を晒しても、恥じない官僚上がりの偏差値偏重社会の歪(いびつ)さは、随所に現われて居る『変てこな時代』で在る。
人類は道具として、打製石器⇒磨製石器⇒青銅器⇒鉄器。動力としては、人力⇒牛馬の家畜力⇒水力・風力⇒蒸気動力⇒内燃機関動力・電気動力と進んで来た。エネルギーとしては、薪・木炭⇒石炭⇒石油⇒原子力。管理・統制・統治は人から、中央集権の官僚統治、そして現在は、人の手を離れた集積回路、電子頭脳が制御する時代で在る。
技能知識の無い素人の創意工夫の領域など問題にされない。在るとすれば、伝統工芸、文化領域にして、精神面としては、原始キリスト教に還れ、聖書に還れの事例に基ずいて、社会的お役御免のロートル世代が、時間の余裕の中に、おふくろの味を再生するのが、精々出来る創意工夫でしか在るまい。
鍋に火を入れながらの『おふくろの味』から、端を発して思わぬ方向に中指が進んで仕舞った。遺憾いかん・・・暇に飽かせて、屁にも為らぬ長駄文館の行進して居るので在るから、愚の骨頂の態で、世間様から独り身を託つのも当然の流れと云う物で在る。いやはや、吾ながら困った親父の独り言で在る。
7時のニュースを聴いて居ると、香港デモも新局面を迎えて居るそうで在る。曰く、『行政長官は、香港、中狂の二人の主人を持つ身で、行える事は非常に限られて居る。』こんな声明を聴くと、流石に官僚大国の中国さんだけ在って、言い訳は巧い物で在る。
さてさて、毒亜圏宗主国の習近平国家主席は、世界覇権戦争での米欧の代理戦とも目されて居る『香港デモ』で在る。
中国史に準えれば、呆気無く倒れた中国最初の秦帝国の後を巡って争われた項羽・劉邦の戦いは、別名黄河文明と長江文明の一大決戦で『漢・楚戦争』とも云われて居るそうな。楚の項羽が聞いた歌は、漢の歌にして、四面楚歌の故事は余りにも有名で在る。毒亜圏総帥の耳には、『四面西歌』に聞こえるか否かは、浅学非才の底辺貧民の私には解らない次第では在るが、小中華を以って上から目線の韓国さんの吾が日本国に対する火病振りと何か連動して観えるのだが、如何な物で在ろうか。へへへ。
本日、全天の薄曇りにして、肌寒い限りで在る。さてさて、腹も空いて来たから、貝ヒモ&アサリのマイルド佃煮をメーンにして、朝飯と致しましょうかね。何、韓国リポートか、聞いてからにすると致そう。日本無くして進まぬ韓国さんの日本商品・旅行志向、ベストセラー本の反日・排日への批判本の紹介で在った。
左様で御座るか。飯、飯、腹が空いたわいね。
昨日は雨はパラりと来ただけで、止んで終った。その後の蒸し暑さは、堪えた。午前中の庭作業が在ったので、自転車でホームセンターまで、散歩代わりの買い物をして、隣の大手スーパーで肉、魚類を補充の為に買い、貝ヒモ、アサリのボイルドが在ったので、本日の台所遊びで、甘辛く佃煮風に煮込む事にする。晩飯は生姜焼きにして、精を付けて置く。蒸し暑さに対抗して、風呂に入り洗濯をして置く。
秋の夜長なのスタートとしては、家事も終わり好い感じでコオロギの声を聴く。駄菓子も買って来たので、口寂しさの補充にもなる。寝室のノートパソコンに向かう。機種の違いもSのお陰で使える様になって、部屋の移動も平等に成って居て、部屋其々の雰囲気が在るから、気分転換効果も在る次第で在る。
四畳半、廊下を網戸として居るので、夜気の通りとコオロギの声が、夜の静寂にフィットして居る。こう云う雰囲気が子供の頃から好きで、寂しさを感じないタイプなので、しぶとく元気で居られるのかも知れない。
流石に古希坂住人に為って、テレビは疲れるし、ビデオテープ、DVDの映画見は殆どしなくなって来て居る。今考えると、テレビ見はエネルギー使用量が高かったと云う事で在る。テレビ、新聞から卒業した分、自分の時間が広がって、マイペースのマイタイムがストレス無しの好い方向に向かって居るのだろう。
明けて、本日。さて起きるか。廊下を開けて、お待ちかねの鳥達を軒下に吊るし、昨夜から火を入れたり、浸み込ませたりの貝ヒモとアサリの『ふっくら柔らか炊き』に仕上げる為の火入れとする。味見をして見ると、大分仕上がって来た。へへへの段で在る。
おふくろの味は、何と云っても繰り返し煮込んだ『手間の味』とも云えようか。勿論、付き切りで居る必要は無い。昔は内職は在る物の主婦は家に居たから、鍋に火を掛けてのコトコト煮が一般的で、其々の家庭に『おふくろの味』が定着して居たので在ろう。
タイムトリップすれば、『通い帳』で月払いの雑貨店が地域には在って、食料雑貨の日用品購入は、そんな仕組みで為されて居た。それが高度成長で共稼ぎの社会に成ってパック売り、現金のスーパーが登場して、昔ながらの小店舗はスーパーに物の見事に駆逐されて行った。
次が地場資本スーパーが大手、全国スーパーに取って代わられる時代と成り、車社会下の郊外のメガスーパー、高速道路網の発展により中核都市でのショッピングモールが誕生する様に成った。
所謂、大資本による画一化・大量販売・大規模化の衣食の大量仕入れ・販売のマーケット産業態の時代で在る。安く大量に仕入れる資本力は、当然に世界からの輸入品に支えられて居る構造でも在る。
昔パートタイマー、今、非正規雇用、高学歴化の職業婦人への様替わりで、現役世代では市販物、外食がライフスタイルと成り、家庭料理が影を潜めて仕舞った。中央マスゴミでは、女性の晩婚化、育児の負担化が、恰も男女の不平等に言及されて、少子化歯止め策、労働人口の減少を実質移民策で舵取りし様とする政策ばかりが、正当化されて居る。
そんな次第で知らず知らずの内に、味覚までもが画一化されて終った時代で在る。『コンビニさえ在れば、生きて行かれる』なんて表現も出て来る世で在る。
生活スタイルが便利・安易・手間要らずと為れば、幾ら文科省が国際競争に伍する為の英語力、考える力、想像力の向上を『スローガン化』しようとも、限られた中での創意工夫の知恵も出す必要も無く、その時々の中で便利・安易・手間要らずの部分を部品の様にチョイスするのが、『狭過ぎる創意工夫の領域』に為って仕舞うのは、『水は高きより、低きに流れる』の道理でも在ろう。
災害地を視察する政府高官が、長靴を忘れオンブされる醜態を晒しても、恥じない官僚上がりの偏差値偏重社会の歪(いびつ)さは、随所に現われて居る『変てこな時代』で在る。
人類は道具として、打製石器⇒磨製石器⇒青銅器⇒鉄器。動力としては、人力⇒牛馬の家畜力⇒水力・風力⇒蒸気動力⇒内燃機関動力・電気動力と進んで来た。エネルギーとしては、薪・木炭⇒石炭⇒石油⇒原子力。管理・統制・統治は人から、中央集権の官僚統治、そして現在は、人の手を離れた集積回路、電子頭脳が制御する時代で在る。
技能知識の無い素人の創意工夫の領域など問題にされない。在るとすれば、伝統工芸、文化領域にして、精神面としては、原始キリスト教に還れ、聖書に還れの事例に基ずいて、社会的お役御免のロートル世代が、時間の余裕の中に、おふくろの味を再生するのが、精々出来る創意工夫でしか在るまい。
鍋に火を入れながらの『おふくろの味』から、端を発して思わぬ方向に中指が進んで仕舞った。遺憾いかん・・・暇に飽かせて、屁にも為らぬ長駄文館の行進して居るので在るから、愚の骨頂の態で、世間様から独り身を託つのも当然の流れと云う物で在る。いやはや、吾ながら困った親父の独り言で在る。
7時のニュースを聴いて居ると、香港デモも新局面を迎えて居るそうで在る。曰く、『行政長官は、香港、中狂の二人の主人を持つ身で、行える事は非常に限られて居る。』こんな声明を聴くと、流石に官僚大国の中国さんだけ在って、言い訳は巧い物で在る。
さてさて、毒亜圏宗主国の習近平国家主席は、世界覇権戦争での米欧の代理戦とも目されて居る『香港デモ』で在る。
中国史に準えれば、呆気無く倒れた中国最初の秦帝国の後を巡って争われた項羽・劉邦の戦いは、別名黄河文明と長江文明の一大決戦で『漢・楚戦争』とも云われて居るそうな。楚の項羽が聞いた歌は、漢の歌にして、四面楚歌の故事は余りにも有名で在る。毒亜圏総帥の耳には、『四面西歌』に聞こえるか否かは、浅学非才の底辺貧民の私には解らない次第では在るが、小中華を以って上から目線の韓国さんの吾が日本国に対する火病振りと何か連動して観えるのだが、如何な物で在ろうか。へへへ。
本日、全天の薄曇りにして、肌寒い限りで在る。さてさて、腹も空いて来たから、貝ヒモ&アサリのマイルド佃煮をメーンにして、朝飯と致しましょうかね。何、韓国リポートか、聞いてからにすると致そう。日本無くして進まぬ韓国さんの日本商品・旅行志向、ベストセラー本の反日・排日への批判本の紹介で在った。
左様で御座るか。飯、飯、腹が空いたわいね。
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