長駄文館・・・終日の雨か。
- 2020/04/18
- 16:09
本日は、終日の雨模様為り。(4/18/20)
おっ、本日は予報通り、雨で在るか。庭に出れ無いから、廊下から朝の庭を眺める。庭の植物達には寒かろうが、しっとりと充分なお湿りと成ろう。廊下のシクラメン鉢を外に出して、天からの摂水とする。
昨日はSの手伝いと、マクワ瓜、小玉スイカの種から育て様と思って居た所への砂運びも出来た。空かせて置けば、雑草が生えるだけ。工夫して難儀では在るが、川から砂運びをすれば、それなりの有益な地面と為る。雑草抜きさえして置けば、野苺化した植勢の強さで、その内に東の苺群を形成する事だろう。
日照時間の長短で収穫時差が生じるので、『生り物成仏』のジャム作りをする日課としては、時間潰しが持続すると云う物で在る。これも歳時記の通例で在り、年季積みの効果で今ではベテランの域でも在る。
私は、無名人で在る。有名の表層評価の得意な?Yに依ると、私の生活は『妄巣窟住人』との酷評で在る。平安貴族の嫡流ながら諸般の事情から、正統・妥当な神職に着けなかった悲哀を根底に置いた方丈記作者と本質に於いて、どれ程の違いが在ろうかと、毒付いて居る次第でも在る。
平安から鎌倉と政権の移行期に在って、『隠者文学』とは体裁の好い表現では在るが、底辺貧民の感想からすれば、川の流れに譬える隠者文学には滅び行く貴族階層の仏教的インテリ臭が濃過ぎて、然も在りなむの帰来を感じて仕舞う処でも在る。
ペースメーカー内蔵の『無料美術館巡り』が好きで、世界史が得意で、論語、仏教本を読み、目下方丈記を読んで居ると云うYでは在るが、私が不思議に思う事が、其処までして何故に自分軸の構築が出来て居ないのかの点で在る。その癖、拘りが強いので在るから、彼是と講釈を受けて仕舞う。いやはや、困った性格で在る。
仏教専門者に云わせると、他力本願の仏教的意味が解って居ないのが許せないとの由では在るが、一般的に使用されて居る他力本願と自力本願の区訳からすると、最終的な仏の道は、どんなに努力しても人間の能力は有限の域にしか過ぎないから、最終的解脱には御仏の他力・慈悲に縋るしか無いとの由で在るが、この世に生を受けて、自己を鍛えて『自力本願の努力を重ねる生活態度』こそが、人間の生きる有限為る道で、凡人にとっては、それ以上の聖人の道など『不要』と思うのが、無信心者の道と思って居る次第で在る。
人間は何かしらの得手物を握って、生まれて来るとも云われて居る。その得手物をどの時点で気付いて、それに磨きを付けて行くかが、人生に在り来たりの風景画を描くか、個性の色彩を用いて個性画を描くかの道で在る。
有限界に住まう凡夫としては、無限界思考、世界は、実態界と観念界の渡れぬ次元の違いで、幾ら雑駁なスカンポ脳で考えても、解らない乖離が横たわって居る次第で在る。
基より宗教の奥義には興味は無いが、人類史、世界史、日本史に於ける宗教史には、人間と宗教、時代と勢力と宗教の関わって来た問題は、大いに興味を持って居る次第で在る。
祭司主義に陥ったバラモン批判のウパニャド哲学の『梵我一如』とバラモンと土着多神教の融合・ヒンズー教が採り入れた『不二一元論』。キリスト教にした処で、祭司主義に陥ったユダヤ教・パリサイ主義批判から始まったヨハネの洗礼布教の影響を受けたナザレのイエスが始めたのが、イエス・キリスト教との由。
キリスト教が多神教のローマ帝国の国教と為れば、早々に内部闘争が始まり、イエスの三位一体論と、その神性と人性の違いを表したアリウス派、ネストリウス派の異端追放の歴史が在る。ローマ帝国時の五本山制が、帝国の東西分裂から西のローマカソリック、東の東教会のビザンツに分裂する。
何事も組織が肥大化すると、『ややこしい問題』が生じて来るのが人間界で在る。聖界のローマカソリックと俗界の封建世界が支配した中世西欧では、『哲学は神学の婢(はしため)』と位置付けられた中世スコラ学に於ける『神学大全』での神や普遍の実在を巡る普遍論争の『実在論』と『唯名論』などは、、世俗の実態界と聖界・仏界の容易に渡れぬ隔たりを感じて、私としては宗教には距離を保つべきとの結論に達せざるを得ない次第で在る。
私は論語、宗教には、関心も無く疎い次第で在るから、一家言を持つYの話を拝聴して居るのだが、浅学非才の身には一向に解らない分野で在る。
歴史と云う時間軸に置いて見ると、宗教界には兎角、原始キリスト教に還れのベネディクト派、クリューニ派・・・tecの修道院方向、イスラム原理主義、聖書に戻れの宗教革命が在ったりして、論語、儒教も国学と為ると、宋に於ける知行同一の朱子学に為ったり、秦の焚書坑儒、中狂の儒教排斥、チベット、ウィグル弾圧・民族浄化策が強圧的に為ったりで、共産主義が唯一の宗教然として行われて居る毒亜宗主国の中狂体制で在るから、権力を握った人間界のする事は、何をか言わんかなの態で在る。
無神論者の薄平な宗教感想を打った処で、雨が止む訳では無いし、難解な宗教を想像力を逞しゅうしても、脳細胞は酸欠状態に陥るのみで在る。徒労は、古希坂住人には鬼門で在る。
音を立てて降り続く雨の下には、春の庭が在る。地面の川砂の下には、庭、土手の大欅の落葉が埋蔵されて居る。埋蔵落葉の分解には、水分とバクテリア群、地中生物の働きが必要と成る。『燃焼の三要素』では無いが、燃える物、酸素、燃焼温度と小学校で習った次第で在るから、落葉分解の腐葉土育成には、分解する物、水分、分解生物が多分三要素なのだろう。
義務教育とは、良く名付けた物で、小中学校の9年間に学習した事を基礎に観察、考えれば、日常的な事には応用的答えが得られるもので在る。
春は足早で在る。山ツツジも錆を落として緑に、楓も赤の萌を始めて来た。去年買って来て植えたブドウは植え替える時に見ると、殆ど根が付いて居なかった代物で在った。枯れた様で引き抜こうとしたら、何やら芽吹きの兆候が見られたので、様子を見る事にした。それが本日の本格的な雨で在るから、観察には丁度好い次第で在る。
従って、本日は鈍らな一日を送っても、文句は無かろう。
昨夜は、動画見で夜更かしをして仕舞った。朝飯後は雨の寒さで二度寝を決め込んだ。二時近くに成ってトイレに起きる。未だ雨は降り続けて居る。一応、鉢植えシラクメン4鉢を廊下に取り入れて、小部屋でのコーヒーと一服を点けて、中断して居た本日分ブログの続きを打つ。その内に、雨も小降りと成り、雨は止み空も明るく成って来た。
背後からは雨で増水した川音が聞こえて来て居る。三時近く成って来ると、陽が差して来た。さぁ、この位で切り上げて、ブログ投稿をして、川の様子を見て来て、庭観察をすると致そう。へへへ。
夜の部は一つ、備忘録清書に加える物が浮かんだ次第で在る。まぁ、それも好かろう。
おっ、本日は予報通り、雨で在るか。庭に出れ無いから、廊下から朝の庭を眺める。庭の植物達には寒かろうが、しっとりと充分なお湿りと成ろう。廊下のシクラメン鉢を外に出して、天からの摂水とする。
昨日はSの手伝いと、マクワ瓜、小玉スイカの種から育て様と思って居た所への砂運びも出来た。空かせて置けば、雑草が生えるだけ。工夫して難儀では在るが、川から砂運びをすれば、それなりの有益な地面と為る。雑草抜きさえして置けば、野苺化した植勢の強さで、その内に東の苺群を形成する事だろう。
日照時間の長短で収穫時差が生じるので、『生り物成仏』のジャム作りをする日課としては、時間潰しが持続すると云う物で在る。これも歳時記の通例で在り、年季積みの効果で今ではベテランの域でも在る。
私は、無名人で在る。有名の表層評価の得意な?Yに依ると、私の生活は『妄巣窟住人』との酷評で在る。平安貴族の嫡流ながら諸般の事情から、正統・妥当な神職に着けなかった悲哀を根底に置いた方丈記作者と本質に於いて、どれ程の違いが在ろうかと、毒付いて居る次第でも在る。
平安から鎌倉と政権の移行期に在って、『隠者文学』とは体裁の好い表現では在るが、底辺貧民の感想からすれば、川の流れに譬える隠者文学には滅び行く貴族階層の仏教的インテリ臭が濃過ぎて、然も在りなむの帰来を感じて仕舞う処でも在る。
ペースメーカー内蔵の『無料美術館巡り』が好きで、世界史が得意で、論語、仏教本を読み、目下方丈記を読んで居ると云うYでは在るが、私が不思議に思う事が、其処までして何故に自分軸の構築が出来て居ないのかの点で在る。その癖、拘りが強いので在るから、彼是と講釈を受けて仕舞う。いやはや、困った性格で在る。
仏教専門者に云わせると、他力本願の仏教的意味が解って居ないのが許せないとの由では在るが、一般的に使用されて居る他力本願と自力本願の区訳からすると、最終的な仏の道は、どんなに努力しても人間の能力は有限の域にしか過ぎないから、最終的解脱には御仏の他力・慈悲に縋るしか無いとの由で在るが、この世に生を受けて、自己を鍛えて『自力本願の努力を重ねる生活態度』こそが、人間の生きる有限為る道で、凡人にとっては、それ以上の聖人の道など『不要』と思うのが、無信心者の道と思って居る次第で在る。
人間は何かしらの得手物を握って、生まれて来るとも云われて居る。その得手物をどの時点で気付いて、それに磨きを付けて行くかが、人生に在り来たりの風景画を描くか、個性の色彩を用いて個性画を描くかの道で在る。
有限界に住まう凡夫としては、無限界思考、世界は、実態界と観念界の渡れぬ次元の違いで、幾ら雑駁なスカンポ脳で考えても、解らない乖離が横たわって居る次第で在る。
基より宗教の奥義には興味は無いが、人類史、世界史、日本史に於ける宗教史には、人間と宗教、時代と勢力と宗教の関わって来た問題は、大いに興味を持って居る次第で在る。
祭司主義に陥ったバラモン批判のウパニャド哲学の『梵我一如』とバラモンと土着多神教の融合・ヒンズー教が採り入れた『不二一元論』。キリスト教にした処で、祭司主義に陥ったユダヤ教・パリサイ主義批判から始まったヨハネの洗礼布教の影響を受けたナザレのイエスが始めたのが、イエス・キリスト教との由。
キリスト教が多神教のローマ帝国の国教と為れば、早々に内部闘争が始まり、イエスの三位一体論と、その神性と人性の違いを表したアリウス派、ネストリウス派の異端追放の歴史が在る。ローマ帝国時の五本山制が、帝国の東西分裂から西のローマカソリック、東の東教会のビザンツに分裂する。
何事も組織が肥大化すると、『ややこしい問題』が生じて来るのが人間界で在る。聖界のローマカソリックと俗界の封建世界が支配した中世西欧では、『哲学は神学の婢(はしため)』と位置付けられた中世スコラ学に於ける『神学大全』での神や普遍の実在を巡る普遍論争の『実在論』と『唯名論』などは、、世俗の実態界と聖界・仏界の容易に渡れぬ隔たりを感じて、私としては宗教には距離を保つべきとの結論に達せざるを得ない次第で在る。
私は論語、宗教には、関心も無く疎い次第で在るから、一家言を持つYの話を拝聴して居るのだが、浅学非才の身には一向に解らない分野で在る。
歴史と云う時間軸に置いて見ると、宗教界には兎角、原始キリスト教に還れのベネディクト派、クリューニ派・・・tecの修道院方向、イスラム原理主義、聖書に戻れの宗教革命が在ったりして、論語、儒教も国学と為ると、宋に於ける知行同一の朱子学に為ったり、秦の焚書坑儒、中狂の儒教排斥、チベット、ウィグル弾圧・民族浄化策が強圧的に為ったりで、共産主義が唯一の宗教然として行われて居る毒亜宗主国の中狂体制で在るから、権力を握った人間界のする事は、何をか言わんかなの態で在る。
無神論者の薄平な宗教感想を打った処で、雨が止む訳では無いし、難解な宗教を想像力を逞しゅうしても、脳細胞は酸欠状態に陥るのみで在る。徒労は、古希坂住人には鬼門で在る。
音を立てて降り続く雨の下には、春の庭が在る。地面の川砂の下には、庭、土手の大欅の落葉が埋蔵されて居る。埋蔵落葉の分解には、水分とバクテリア群、地中生物の働きが必要と成る。『燃焼の三要素』では無いが、燃える物、酸素、燃焼温度と小学校で習った次第で在るから、落葉分解の腐葉土育成には、分解する物、水分、分解生物が多分三要素なのだろう。
義務教育とは、良く名付けた物で、小中学校の9年間に学習した事を基礎に観察、考えれば、日常的な事には応用的答えが得られるもので在る。
春は足早で在る。山ツツジも錆を落として緑に、楓も赤の萌を始めて来た。去年買って来て植えたブドウは植え替える時に見ると、殆ど根が付いて居なかった代物で在った。枯れた様で引き抜こうとしたら、何やら芽吹きの兆候が見られたので、様子を見る事にした。それが本日の本格的な雨で在るから、観察には丁度好い次第で在る。
従って、本日は鈍らな一日を送っても、文句は無かろう。
昨夜は、動画見で夜更かしをして仕舞った。朝飯後は雨の寒さで二度寝を決め込んだ。二時近くに成ってトイレに起きる。未だ雨は降り続けて居る。一応、鉢植えシラクメン4鉢を廊下に取り入れて、小部屋でのコーヒーと一服を点けて、中断して居た本日分ブログの続きを打つ。その内に、雨も小降りと成り、雨は止み空も明るく成って来た。
背後からは雨で増水した川音が聞こえて来て居る。三時近く成って来ると、陽が差して来た。さぁ、この位で切り上げて、ブログ投稿をして、川の様子を見て来て、庭観察をすると致そう。へへへ。
夜の部は一つ、備忘録清書に加える物が浮かんだ次第で在る。まぁ、それも好かろう。
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