長駄文館・・・大気不安定の7/1為り。
- 2020/07/01
- 11:03
大気、不安定に帰す7/1為り。(7/1/20)
叩き付ける雨音に起こされた。しゃ~無い、起きるかで、小部屋でコーヒーを飲みながら、降り頻る雨足の激しさに、暫しの文句タラタラをして見る。すると『文句通天』か、雨が止んだ。ラジオによると、本日は断続的の雨との由。水の溜まった庭サンダルを払って、キュウリ採りと落下梅を拾って来る。
本日は7月始めで在るか・・・、忘れぬ内にカレンダー捲りをして来るべしで在る。間を置くと、兎に角、健忘症の進みで在る。これも、吾が経時劣化の様で在る。極力、気付いた事、思った事は、後回し、纏めて遣る事を断念して、忘れぬ内にその都度、して置く事を心掛けて居る次第に為りつつ在る。膝関節は遠の昔に劣化して居るので、起き上がる時、立ち上がる時には、安全第一の指差し呼称では無いが、近くの物に手を置いてのヨッコラ、ショの声掛けをして居る日々で在る。
まぁ、それでも歳を取れば、誰しもが劣化工程を直進するので在るから、ボヤく気にも為らず、真面目に自分の劣化状況と伴走して居る次第で在る。これを称して、往生際良しの『諦観』と云うので在る。
私は日々のブログ日誌として、周囲、周辺の諸々を打ち続けて居る次第で在る。然しながら、作文打ちとしては自分の姿が見えない処が面白くない。私が人間観察に興味を持って居る分、自分が周囲から如何見られて居るかにも、自己客観視的関心が在る。
そんな次第で誰かに文章描写して貰いたいと思うが、残念ながら『私を文章化』して呉れる気の利いた人が居ないのが真に寂しい次第で在る。言葉表現と文章表現には、自ずと違いが在る。文章表現には其れなりの起承転結の、書き手の論証めいた物が現れる。その論証めいた思考回路に興味が在る。文字は体を現わすの言葉通りに、書き手の内面を示すもので在るから、会話以上のその人の内部が見えて来る物と考えて居る次第で在る。
一時、テレビで流行った「僕のお父さん」の作文に倣って、『僕のお爺ちゃん』の作文を小童子に書かせて見ようとは思うが、「俺、出来無ぇよ。嫌だよ。」で、多分乗っては来ないだろう。勉強、宿題嫌いだった自分を振り返れば、小童子に無理強いするのは酷にして、私の流儀に合わない次第で在る。アハハ。
こんな行を打って居ると、薄日が差して来た。味噌汁の具にミツバ千切りをしに行くと、ピーマン苗が何時の間にか、青唐辛子のシシトウに変化して居るでは無いか。醜いアヒルの子が白鳥に豹変したのか、はたまた鷹がトンビに豹変したのか、その評価は時期早尚の段階で在る。育苗農家にも高齢化定着する日本の風景の一つなのだろう。イヒヒ。
『文句通天』の次第で在るから、廊下鳥を軒下の定位置に吊るして遣る。大分風は強いが、廊下よりも外気の風の通りの方が気持ちも好かろう。飯を食べ終えて、小部屋復帰をすれば、一時の晴れ間は何処ぞやで、全天の雲で在る。空を見上げれば南から北へと灰色雲の流れで、益々もっての風の吹き回りと成って来た。
いやはや、大気不安定に帰す7/1と成りそうで在る。
延び延びと成って居た寝所の片付けをする為に、重い腰を上げて取り掛かって居ると、先輩さんの顔出しで在る。『自転車直しは懲り懲りだぜ、駄目だんね。指の関節が痛くて堪らんわね。』『諦めた。来週のゴミ出しにしたよ。今日は、小菊を貰いに来た。』
小菊を引き抜いたり、赤紫蘇の葉採り、野生アヤメの株分けをしたりの漫才を交わす。先輩を見送り、片付け作業に復帰して一応の男の大掃除とする。落ち梅を加えて、水の上がって来た漬物容器の重石を半分に低減して、ビニールで密閉して蓋を被せる。これで潮に馴染んで貰い、お盆前後の三日三晩の天日干しをして、甕容器の中で寝かせ付けて置けば、塩と酸っぱさの角が除去されて来て、恒例の梅干し配りが出来ると云う物で在る。
我が家の梅干しは、M氏の好物で在ったし、倅ファミリー、ガス屋のブロンソンさんの好む処でも在る。其れなりに完成したら、梅漬けは出来ないと云う天理教さんにもお裾分けと致そうか。今年は何時に無く、熟しの回った大梅の量で在る。レシピを持たない目視の梅漬け塩梅の結果や、『如何に』の段で在る。
さてさて、早くも11時に近付いて来た。本日分ブログを収めて、午後の部前の一服をして置くと致そうか。これ即ち、マイペースの日常の段で在る。へへへ。
叩き付ける雨音に起こされた。しゃ~無い、起きるかで、小部屋でコーヒーを飲みながら、降り頻る雨足の激しさに、暫しの文句タラタラをして見る。すると『文句通天』か、雨が止んだ。ラジオによると、本日は断続的の雨との由。水の溜まった庭サンダルを払って、キュウリ採りと落下梅を拾って来る。
本日は7月始めで在るか・・・、忘れぬ内にカレンダー捲りをして来るべしで在る。間を置くと、兎に角、健忘症の進みで在る。これも、吾が経時劣化の様で在る。極力、気付いた事、思った事は、後回し、纏めて遣る事を断念して、忘れぬ内にその都度、して置く事を心掛けて居る次第に為りつつ在る。膝関節は遠の昔に劣化して居るので、起き上がる時、立ち上がる時には、安全第一の指差し呼称では無いが、近くの物に手を置いてのヨッコラ、ショの声掛けをして居る日々で在る。
まぁ、それでも歳を取れば、誰しもが劣化工程を直進するので在るから、ボヤく気にも為らず、真面目に自分の劣化状況と伴走して居る次第で在る。これを称して、往生際良しの『諦観』と云うので在る。
私は日々のブログ日誌として、周囲、周辺の諸々を打ち続けて居る次第で在る。然しながら、作文打ちとしては自分の姿が見えない処が面白くない。私が人間観察に興味を持って居る分、自分が周囲から如何見られて居るかにも、自己客観視的関心が在る。
そんな次第で誰かに文章描写して貰いたいと思うが、残念ながら『私を文章化』して呉れる気の利いた人が居ないのが真に寂しい次第で在る。言葉表現と文章表現には、自ずと違いが在る。文章表現には其れなりの起承転結の、書き手の論証めいた物が現れる。その論証めいた思考回路に興味が在る。文字は体を現わすの言葉通りに、書き手の内面を示すもので在るから、会話以上のその人の内部が見えて来る物と考えて居る次第で在る。
一時、テレビで流行った「僕のお父さん」の作文に倣って、『僕のお爺ちゃん』の作文を小童子に書かせて見ようとは思うが、「俺、出来無ぇよ。嫌だよ。」で、多分乗っては来ないだろう。勉強、宿題嫌いだった自分を振り返れば、小童子に無理強いするのは酷にして、私の流儀に合わない次第で在る。アハハ。
こんな行を打って居ると、薄日が差して来た。味噌汁の具にミツバ千切りをしに行くと、ピーマン苗が何時の間にか、青唐辛子のシシトウに変化して居るでは無いか。醜いアヒルの子が白鳥に豹変したのか、はたまた鷹がトンビに豹変したのか、その評価は時期早尚の段階で在る。育苗農家にも高齢化定着する日本の風景の一つなのだろう。イヒヒ。
『文句通天』の次第で在るから、廊下鳥を軒下の定位置に吊るして遣る。大分風は強いが、廊下よりも外気の風の通りの方が気持ちも好かろう。飯を食べ終えて、小部屋復帰をすれば、一時の晴れ間は何処ぞやで、全天の雲で在る。空を見上げれば南から北へと灰色雲の流れで、益々もっての風の吹き回りと成って来た。
いやはや、大気不安定に帰す7/1と成りそうで在る。
延び延びと成って居た寝所の片付けをする為に、重い腰を上げて取り掛かって居ると、先輩さんの顔出しで在る。『自転車直しは懲り懲りだぜ、駄目だんね。指の関節が痛くて堪らんわね。』『諦めた。来週のゴミ出しにしたよ。今日は、小菊を貰いに来た。』
小菊を引き抜いたり、赤紫蘇の葉採り、野生アヤメの株分けをしたりの漫才を交わす。先輩を見送り、片付け作業に復帰して一応の男の大掃除とする。落ち梅を加えて、水の上がって来た漬物容器の重石を半分に低減して、ビニールで密閉して蓋を被せる。これで潮に馴染んで貰い、お盆前後の三日三晩の天日干しをして、甕容器の中で寝かせ付けて置けば、塩と酸っぱさの角が除去されて来て、恒例の梅干し配りが出来ると云う物で在る。
我が家の梅干しは、M氏の好物で在ったし、倅ファミリー、ガス屋のブロンソンさんの好む処でも在る。其れなりに完成したら、梅漬けは出来ないと云う天理教さんにもお裾分けと致そうか。今年は何時に無く、熟しの回った大梅の量で在る。レシピを持たない目視の梅漬け塩梅の結果や、『如何に』の段で在る。
さてさて、早くも11時に近付いて来た。本日分ブログを収めて、午後の部前の一服をして置くと致そうか。これ即ち、マイペースの日常の段で在る。へへへ。
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