長駄文館・・・何と雑草の繁茂為りしか。
- 2020/07/02
- 16:44
何と雑草の繁茂為りしか。(7/2/20)
晴れた朝に、強めの風が吹いて清々しい気分で在る。庭にグッモーニングのご挨拶をして居ると、身近にスマートなキセキレイの姿で在る。口に虫を咥えて、雛への餌探しをして居る様子で在る。私を意識して居ないらしいから、暫くセキレイの行動を観察する。
中禅寺湖では、何時もハクセキレイが近くに居た物で在る。女鳥羽川の通年鳥はセグロセキレイとキセキレイで在る。セグロとハクは、殆どが同じ体色で、その違いは顔面の黒いのがセグロで、白いのがハクセキレイで在る。セキレイは営巣を家の近くでするから、子育て時には川から離れて来る。小中時には玄関横のヒマラヤスギに営巣して居たので、四畳半の出窓に載って、窓から身を乗り出してセキレイ観察をして居た物で在る。
小さい頃からどちらかと云うと、面倒な人間付き合いよりも動植物、静物観察の方が、私の性分に合って居る次第で在る。
昨夕は頁進めの息抜きに、鉢の盆栽サツキの定植をして見た。驚いた事に、二つの瀬戸物鉢にギュウギュウ詰めにして植えて置いたので、根張りが不十分で窒息傾向を呈して居て、好いタイミングでの定植と相成った。
配置のバランス上、大振りの石をセットすれば様に為ると思い、朽ち果てたヒマラヤスギの独枯の台石を利用する事にして置いて見る事にした。
然しながら、私も充分な年齢で在る。好い格好の石では在るが、果たして移動出来るかの心配が先に立つ。若い頃にしたのだが、吾ながらこんな大石を持ち上げたので在るから、大した力持ちで在る。
感心すると同時に、些か怖くなって仕舞った。それでもギックリ腰に為らぬ様に、充分の腰割りをして持ち上げると、持ち上がったから『出来た!!』の喜びで在った。
若い頃、鍛え上げた腰、腕力とは、自分が思う程は衰えない物らしい。石の並びも満足行く形で配置出来て、不足分は動き序で在るから、適当な石を2つ川原から運んで来て置いた。
さて、朽ち果てて味の出て居る独枯の設定場所を、何処にしようかのお遊びとする。これも相当に重い。2、3か所に置いて見て、据わりの好い場所を選び、見栄えの好い向きを調整して、『自画自賛』の廊下での一服とコーヒー飲みとした次第で在る。
そんな次第で、本日の朝飯前のウォーミングアップとして、移動して入り易く為った『死角の雑草退治』とする。いやはや、見ただけで嫌に為って仕舞う程の雑草の生い茂りで在る。
然しながら、ボヤいても一切始まらぬ独居親父にして、何事もDIYの吾が課業で在る。作業など、所詮引き算で在る。遣れば遣った分だけ、残りは減って行くだけの事で在る。頭、体のスイッチを切り換えて黙々とこなせば、結果は自ずと付いて来る『単純明快さ』で在る。
番から男たる者、愚痴はよそうぜ。男が廃(すた)る。独り黙って、汗を搔いて遣れば終わるのみで在る。世の中、私の対極に在る四の五のしない理由付けを云う『不埒者』が多過ぎる次第でイケ好かない。その癖、演歌好きと来て居るので、カラオケ回路と行動回路が、何処ぞで交差して居るのだろう。困った人間模様界で在る。
昨日の動画を見て居ると、嘘吐き発言とやらの両陣営からの『真相はこうだ』の動画貼り付けが在った。
いやはや、両者には両者の言い分が在って当然なので在るから、引き金と為る事象が在って、それに両者の違った反応が出て来る。その反応の違いを『事実と異なる』から双方嘘吐き呼ばわりをして、言い分の違いを論(あげつら)って見た処で、それは受け止め方、感受性、自論を通す手法も異なるのが人間界の厄介な側面で在る。
言い分の違いは見解の相違とも重複して来るから、両者の『感情的対立』にエスカレートして行く次第で在る。
一応、欠席裁判の弊害で一方のみの言い分を丸吞みして仕舞うと、一書悉く信ずるは、書無きが如しの『落とし穴』に嵌る次第で在る。私は脳構造が粗雑に出来て居るし、背骨の無い軟体動物にして偽色のカメレオン人間で在る。己が非力を顧みて、お互いの言い分を聴いて見て居る次第では在るが、兎角、『言論人の世界』は踏み込みたくない人間模様の『深層』が蠢(うごめ)いて居る様で在る。
サラリーマン時代、薫陶を受けた師からは、『人間、相手を追い込めたら行け無い。一か所は逃げ道を開けて置かなければ駄目なんだぞ。頭の好い奴は、若い頃は如何しても、相手をトコトン追い詰めて仕舞う。西洋のチェスと日本の将棋との違いだ。お前さんは、直情過ぎる。もつともっと馬鹿に為って経験を積め。』とお説教を貰った覚えが在る。
武田信玄さんも、六分勝ちこそ、一番の勝ち方と人間模様を喝破して居たそうで在るし、後世、天才と一部からは評価されて居る織田信長は、本能寺の変で自害に果てた。
『信長が搗いて、秀吉が捏ねて、家康が食べた』と云われる『歴史名言』も在る次第で在る。俺が俺が、私が私がだけで在っては、『本家のヨメ』は務まらないと云うのが、聖徳太子の18条憲法の訓えなのだろう。白黒の追い詰め裁判じぁ在るまいし、事実事実の応酬の裏に蠢く感情対立の現実は、傍観者として聴いて居るだけでも疲れる物で在る。
正確さと許容性・包容力は、別次元の価値観で在る。益してや、無くて七癖の人間娑婆模様に於いては、事実の正確さよりも許容性・包容力の方に人望が集まるのが倣いで在る。そうそう、『沈黙は、金、銀』と云う格言も在った様に思う次第で在る。へへへ。
何処で如何間違った物やら、中指が変な方向に行って仕舞った物で在る。さてさて、腹も空いた事でも在るし、朝飯としてインターバルを置いてから、頁を進める事と致そうか。
晴れた朝に、強めの風が吹いて清々しい気分で在る。庭にグッモーニングのご挨拶をして居ると、身近にスマートなキセキレイの姿で在る。口に虫を咥えて、雛への餌探しをして居る様子で在る。私を意識して居ないらしいから、暫くセキレイの行動を観察する。
中禅寺湖では、何時もハクセキレイが近くに居た物で在る。女鳥羽川の通年鳥はセグロセキレイとキセキレイで在る。セグロとハクは、殆どが同じ体色で、その違いは顔面の黒いのがセグロで、白いのがハクセキレイで在る。セキレイは営巣を家の近くでするから、子育て時には川から離れて来る。小中時には玄関横のヒマラヤスギに営巣して居たので、四畳半の出窓に載って、窓から身を乗り出してセキレイ観察をして居た物で在る。
小さい頃からどちらかと云うと、面倒な人間付き合いよりも動植物、静物観察の方が、私の性分に合って居る次第で在る。
昨夕は頁進めの息抜きに、鉢の盆栽サツキの定植をして見た。驚いた事に、二つの瀬戸物鉢にギュウギュウ詰めにして植えて置いたので、根張りが不十分で窒息傾向を呈して居て、好いタイミングでの定植と相成った。
配置のバランス上、大振りの石をセットすれば様に為ると思い、朽ち果てたヒマラヤスギの独枯の台石を利用する事にして置いて見る事にした。
然しながら、私も充分な年齢で在る。好い格好の石では在るが、果たして移動出来るかの心配が先に立つ。若い頃にしたのだが、吾ながらこんな大石を持ち上げたので在るから、大した力持ちで在る。
感心すると同時に、些か怖くなって仕舞った。それでもギックリ腰に為らぬ様に、充分の腰割りをして持ち上げると、持ち上がったから『出来た!!』の喜びで在った。
若い頃、鍛え上げた腰、腕力とは、自分が思う程は衰えない物らしい。石の並びも満足行く形で配置出来て、不足分は動き序で在るから、適当な石を2つ川原から運んで来て置いた。
さて、朽ち果てて味の出て居る独枯の設定場所を、何処にしようかのお遊びとする。これも相当に重い。2、3か所に置いて見て、据わりの好い場所を選び、見栄えの好い向きを調整して、『自画自賛』の廊下での一服とコーヒー飲みとした次第で在る。
そんな次第で、本日の朝飯前のウォーミングアップとして、移動して入り易く為った『死角の雑草退治』とする。いやはや、見ただけで嫌に為って仕舞う程の雑草の生い茂りで在る。
然しながら、ボヤいても一切始まらぬ独居親父にして、何事もDIYの吾が課業で在る。作業など、所詮引き算で在る。遣れば遣った分だけ、残りは減って行くだけの事で在る。頭、体のスイッチを切り換えて黙々とこなせば、結果は自ずと付いて来る『単純明快さ』で在る。
番から男たる者、愚痴はよそうぜ。男が廃(すた)る。独り黙って、汗を搔いて遣れば終わるのみで在る。世の中、私の対極に在る四の五のしない理由付けを云う『不埒者』が多過ぎる次第でイケ好かない。その癖、演歌好きと来て居るので、カラオケ回路と行動回路が、何処ぞで交差して居るのだろう。困った人間模様界で在る。
昨日の動画を見て居ると、嘘吐き発言とやらの両陣営からの『真相はこうだ』の動画貼り付けが在った。
いやはや、両者には両者の言い分が在って当然なので在るから、引き金と為る事象が在って、それに両者の違った反応が出て来る。その反応の違いを『事実と異なる』から双方嘘吐き呼ばわりをして、言い分の違いを論(あげつら)って見た処で、それは受け止め方、感受性、自論を通す手法も異なるのが人間界の厄介な側面で在る。
言い分の違いは見解の相違とも重複して来るから、両者の『感情的対立』にエスカレートして行く次第で在る。
一応、欠席裁判の弊害で一方のみの言い分を丸吞みして仕舞うと、一書悉く信ずるは、書無きが如しの『落とし穴』に嵌る次第で在る。私は脳構造が粗雑に出来て居るし、背骨の無い軟体動物にして偽色のカメレオン人間で在る。己が非力を顧みて、お互いの言い分を聴いて見て居る次第では在るが、兎角、『言論人の世界』は踏み込みたくない人間模様の『深層』が蠢(うごめ)いて居る様で在る。
サラリーマン時代、薫陶を受けた師からは、『人間、相手を追い込めたら行け無い。一か所は逃げ道を開けて置かなければ駄目なんだぞ。頭の好い奴は、若い頃は如何しても、相手をトコトン追い詰めて仕舞う。西洋のチェスと日本の将棋との違いだ。お前さんは、直情過ぎる。もつともっと馬鹿に為って経験を積め。』とお説教を貰った覚えが在る。
武田信玄さんも、六分勝ちこそ、一番の勝ち方と人間模様を喝破して居たそうで在るし、後世、天才と一部からは評価されて居る織田信長は、本能寺の変で自害に果てた。
『信長が搗いて、秀吉が捏ねて、家康が食べた』と云われる『歴史名言』も在る次第で在る。俺が俺が、私が私がだけで在っては、『本家のヨメ』は務まらないと云うのが、聖徳太子の18条憲法の訓えなのだろう。白黒の追い詰め裁判じぁ在るまいし、事実事実の応酬の裏に蠢く感情対立の現実は、傍観者として聴いて居るだけでも疲れる物で在る。
正確さと許容性・包容力は、別次元の価値観で在る。益してや、無くて七癖の人間娑婆模様に於いては、事実の正確さよりも許容性・包容力の方に人望が集まるのが倣いで在る。そうそう、『沈黙は、金、銀』と云う格言も在った様に思う次第で在る。へへへ。
何処で如何間違った物やら、中指が変な方向に行って仕舞った物で在る。さてさて、腹も空いた事でも在るし、朝飯としてインターバルを置いてから、頁を進める事と致そうか。
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