長駄文館・・・あっじぁ、また雨の叩きつけ為り。
- 2020/07/25
- 14:37
アッジャ~、雨の叩き付けが始まった為り。(7/25/20)
小降りの雨に、カサブランカが一花咲いた。妖怪様のカサブランカで在る。これから次々と開花して、鬼ユリと共に庭はユリの競演と為る。それにしても、雨雨の日々では無いか。昨日は一時お天道さんの顔出しで、苺群の葉の上でキリギリスがセッセと鳴いて居た。そんな午後の暑さに、夕刻に成って自転車でスーパーに買い物に行く途中で、雨に見舞われて仕舞った。
雨の中を帰って来て、晩飯の用意をしながら、台所遊びで茄子の唐辛子を利かせての丸ごと煮付けを仕込んで置いた。茄子を丸ごと味が浸み込む様に表面に刻みを入れて、2袋で10本を甘辛く煮込んで、タッパに収納して冷蔵庫で冷やした後に食すると、何ともあっさりして居て美味い次第なので在る。
茄子は焼いても、炒めても、煮ても、漬けても、天ぷらにしても好しの『優れ物食材』で在る。茄子は例えて言う為らば、庶民にとって真っ白なキャンパスの様な物で、作り手の好みで自由な絵が描ける。そんな自由さを提供して呉れる食材と云って好かろう。
家庭菜園としては必需品の茄子なのだが、吾が家の土には相性が悪くて、殆ど生らないから諦めて植えて居ない次第で在る。
中学生だった頃、母親が夏に成ると好く焼き茄子を作って呉れた。焼き茄子は多分妖怪様の好物だったのだろう。勿論、私の好物で在った。然しながら、育ち盛りの偶には肉も食べたい腹で在る。
文句を言ったら、『乃木大将の処に御呼ばれに行ったら、全部茄子料理だったと云われて居るよ。茄子で充分、日露戦争に勝てたんだよ。母子家庭の男の子が文句を言うもんじゃ無い!!』大正女は、背筋が一本伸びて居て、岩下志麻さんの本家のヨメの貫録が在った。
齢70を超えて、漸く尊母の跡を踏襲出来る段階まで成長出来たらしい日々の生活を送れて居るのも、姿形声は無くとも鎮座まします妖怪様の見守りなのだろうし、庭のカサブランカの中で、数こそ少なく成ったが群を越した高さで、最初に開花したのが妖怪様のカサブランカで在る処が、四男坊の倅としては頭の上がらない『実力の違い』なのだろう。へへへ。
またまた雨が増して来た。昨日は、結構頁進めをして仕舞った。本日もこんな天気で在るからして、手持無沙汰をそれに替えるしか在るまい。
廊下鳥も雨で所定の場所には出して貰えず、退屈な日と成ろう。昨日の就寝時は鬼平犯科帳の朗読を聴いて、暗い寝床で腹を抱えて笑い転げて仕舞った。
題名は知らぬが雨宿りの話で在った。小説は読まないから、鬼平犯科帳は専らテレビと劇画本で在る。劇画本の方は、私が読んで居るのを知って、M氏が好く差し入れをして呉れた物で在る。大体のシリーズは、テレビ、劇画本で知って居るのだが、その朗読も実にしっくりと来る。
思うに池波正太郎さんは、『無類の女好き』と観て居る次第で在る。評論家、ファンによると食通振りを褒める処多しなのだが、私からすると相当な『女通』で在る事が実感出来るし、そのサラリとした描写が実践者の証拠と観て居るので在る。
そもそもが愛でる感性を持って居なければ、風景、心情、食、女への描写など叶う訳が在るまい。描写の根源は、物事への飽くなき好奇心と『愛でる感性』にこそ在るので在るから。先生は、男族が好むスケベと云って好かろう。ネチヤネチャ性描写の無いサラリとした処が、火盗改め長官・長谷川平蔵の大物にして魅力なので在る。
昔から類は友を呼ぶでは無いが、類は類を嗅ぎ分けるの類なのだろう。私の女好きは、親父の遺伝子なのだろう。父親、母親からの遺伝子を素直に頂戴、引き継ぎ、次に申し送りをするのが、神代の昔からの遺伝子のバトンタッチと云う生物の役目なので在る。当然、其処には遺伝子の強弱は現れるのでは在るが・・・。
8時半で在るか、腹も空いて来たから、飯と致そうか。やや、本格的に降って来たでは無いか。立つ序に、傘を差して川の様子を見て来ると致そう。
川は、笹濁りの増水前の流れで在る。それにしても河川敷の草の伸びは早過ぎるでは無いか。土手花壇の真紅のグラジオラスが、雨にスクっと立ち上がり見事で在る。路傍のブラックベリーを一粒口に入れるが、早尚にして酸っぱい限りで在る。雨の恩恵を一身に受けて居るのが、先日天理教さんから頂戴した根付きのレタスで在る。キリギリス達に下葉を捥いで、プレゼントして遣る。
家に入ると、音を立てて雨が叩き付けて来た。本日は雨の一日に成りそうで在る。さて、中狂の三峡ダムは如何な運びと成ろうか。
小降りの雨に、カサブランカが一花咲いた。妖怪様のカサブランカで在る。これから次々と開花して、鬼ユリと共に庭はユリの競演と為る。それにしても、雨雨の日々では無いか。昨日は一時お天道さんの顔出しで、苺群の葉の上でキリギリスがセッセと鳴いて居た。そんな午後の暑さに、夕刻に成って自転車でスーパーに買い物に行く途中で、雨に見舞われて仕舞った。
雨の中を帰って来て、晩飯の用意をしながら、台所遊びで茄子の唐辛子を利かせての丸ごと煮付けを仕込んで置いた。茄子を丸ごと味が浸み込む様に表面に刻みを入れて、2袋で10本を甘辛く煮込んで、タッパに収納して冷蔵庫で冷やした後に食すると、何ともあっさりして居て美味い次第なので在る。
茄子は焼いても、炒めても、煮ても、漬けても、天ぷらにしても好しの『優れ物食材』で在る。茄子は例えて言う為らば、庶民にとって真っ白なキャンパスの様な物で、作り手の好みで自由な絵が描ける。そんな自由さを提供して呉れる食材と云って好かろう。
家庭菜園としては必需品の茄子なのだが、吾が家の土には相性が悪くて、殆ど生らないから諦めて植えて居ない次第で在る。
中学生だった頃、母親が夏に成ると好く焼き茄子を作って呉れた。焼き茄子は多分妖怪様の好物だったのだろう。勿論、私の好物で在った。然しながら、育ち盛りの偶には肉も食べたい腹で在る。
文句を言ったら、『乃木大将の処に御呼ばれに行ったら、全部茄子料理だったと云われて居るよ。茄子で充分、日露戦争に勝てたんだよ。母子家庭の男の子が文句を言うもんじゃ無い!!』大正女は、背筋が一本伸びて居て、岩下志麻さんの本家のヨメの貫録が在った。
齢70を超えて、漸く尊母の跡を踏襲出来る段階まで成長出来たらしい日々の生活を送れて居るのも、姿形声は無くとも鎮座まします妖怪様の見守りなのだろうし、庭のカサブランカの中で、数こそ少なく成ったが群を越した高さで、最初に開花したのが妖怪様のカサブランカで在る処が、四男坊の倅としては頭の上がらない『実力の違い』なのだろう。へへへ。
またまた雨が増して来た。昨日は、結構頁進めをして仕舞った。本日もこんな天気で在るからして、手持無沙汰をそれに替えるしか在るまい。
廊下鳥も雨で所定の場所には出して貰えず、退屈な日と成ろう。昨日の就寝時は鬼平犯科帳の朗読を聴いて、暗い寝床で腹を抱えて笑い転げて仕舞った。
題名は知らぬが雨宿りの話で在った。小説は読まないから、鬼平犯科帳は専らテレビと劇画本で在る。劇画本の方は、私が読んで居るのを知って、M氏が好く差し入れをして呉れた物で在る。大体のシリーズは、テレビ、劇画本で知って居るのだが、その朗読も実にしっくりと来る。
思うに池波正太郎さんは、『無類の女好き』と観て居る次第で在る。評論家、ファンによると食通振りを褒める処多しなのだが、私からすると相当な『女通』で在る事が実感出来るし、そのサラリとした描写が実践者の証拠と観て居るので在る。
そもそもが愛でる感性を持って居なければ、風景、心情、食、女への描写など叶う訳が在るまい。描写の根源は、物事への飽くなき好奇心と『愛でる感性』にこそ在るので在るから。先生は、男族が好むスケベと云って好かろう。ネチヤネチャ性描写の無いサラリとした処が、火盗改め長官・長谷川平蔵の大物にして魅力なので在る。
昔から類は友を呼ぶでは無いが、類は類を嗅ぎ分けるの類なのだろう。私の女好きは、親父の遺伝子なのだろう。父親、母親からの遺伝子を素直に頂戴、引き継ぎ、次に申し送りをするのが、神代の昔からの遺伝子のバトンタッチと云う生物の役目なので在る。当然、其処には遺伝子の強弱は現れるのでは在るが・・・。
8時半で在るか、腹も空いて来たから、飯と致そうか。やや、本格的に降って来たでは無いか。立つ序に、傘を差して川の様子を見て来ると致そう。
川は、笹濁りの増水前の流れで在る。それにしても河川敷の草の伸びは早過ぎるでは無いか。土手花壇の真紅のグラジオラスが、雨にスクっと立ち上がり見事で在る。路傍のブラックベリーを一粒口に入れるが、早尚にして酸っぱい限りで在る。雨の恩恵を一身に受けて居るのが、先日天理教さんから頂戴した根付きのレタスで在る。キリギリス達に下葉を捥いで、プレゼントして遣る。
家に入ると、音を立てて雨が叩き付けて来た。本日は雨の一日に成りそうで在る。さて、中狂の三峡ダムは如何な運びと成ろうか。
スポンサーサイト