長駄文館・・・今年も、梅干し通過為り。
- 2020/08/09
- 15:52
今年も、梅干し収納為り。(8/9/20)
遺憾いかん、朝飯を食べ過ぎて仕舞った。本日、曇天にして、風が好く通る。些か、秋風の様な感じでも在る。私の朝飯前に、キリギリス達には朝採りキュウリと天理教さんから頂戴した根付き葉レタスから活きの好い所を毟って、『新鮮餌』として遣ったので、好い声で鳴いて居る。
植物達には雨の恵みがたっぷり欲しい処では在ろうが、こんな曇天日が三連荘で在るから、雨は降らないだろう。本日は雨に遭わなければ、取り込んで甕入れとする心算で在る。
カレンダーを見れば日曜日で在るからして、満腹で眠く成ったら、寝るも好しのペースで好かろう。
『花の命は短し』で、白のカサブランカ、オレンジの鬼百合、藤色の曼殊沙華も草臥れて終わりを迎えて居る。色物カサブランカが蕾を大きくして居る。殆ど野生化した自生朝顔が随所に花を咲かせて居る。
ミンミンゼミ、アブラゼミが鳴いて、河川敷を行けば、塩辛トンボがお目見えして居る。秋のニラの花咲きなので在るが、今年は早々に花が咲き、松葉ボタンは本の真似事での貧弱さで在る。
自然界のサイクル、歳時記で在るから、毎年判で押した様な形で現れる訳でも無い。これも自然との日々の付き合いと云う物で在る。何の変哲もないマンネリ視角で在っても、年々(としどし)に違いを見たり、見付けるのも、毎日が日曜日の観察眼の一つなのだろう。マンネリにどっぷり浸かり、マンネリを愉しむのも一つの暮らし方で在る。
人間とは、原因を他に転嫁して仕舞うのを『習性』として居る動物らしい。それでも時として、一歩踏み込んだ話を交わして見たいと思うのが、古希坂独居老人と云うもので在る。実際の人で無くとも、動画見でのお付き合いでも好いので在る。
然しながら、その大体に於いて、『躾』が為されて居ないとか、『教育』が間違って居るとか、『政治』が悪い、『官僚・行政』が悪い。『社会』が悪いで、自分軸の欠落した安易過ぎる程の『表層迎合』をして仕舞う層が大半で在る。
教科書に、そう書いて在るとか、学校教育でそう習ったとか、新聞に書いて在った、NHK、民法テレビでそう解説をして居た、偉い学者さんがそう云って居た・・・etcで、口だけは達者な社会で在る。『本音の棘』が語られないのは、余り面白くない次第で在ろうか。
そんな世相に、私は如何しても付いて行けずに、『はい、左様でござんしたか。お邪魔致しました』で、すごすごとウスバカゲロウの幼虫宜しく、すり鉢のアリジゴクで息を潜めて落下獲物を待つか、はたまた冬の寒さに布団から頭だけを出しての省エネ蓑虫独居老人で妄想の夢を見るしかない次第で在る。
学校ではそう教えられたと、教育には『従順姿勢』にも拘わらず、親、兄弟、上司の『社会躾』には逆らうと云うので在るから、誠に解せないのが『人間行動』らしい。
逆らう事は、感情的反発にしろ、論理的反発にしろ、或る意味では『個』を持ち、育てると云う側面が在る。直感的違和感が基と為って、自説を構築する切っ掛けにも為る。多情多恨の成長期には、好奇・向学心、反発・反抗の情緒不安定さは在る物の、真面目に自己と向き合えば、『好い修行期』にも為る。
短絡的⇒を指せば、其処には喜怒哀楽の原初的真面目さが足りないから、行き着く処が、『他に安易転嫁する習性』を積み上げて行くのだろう。他力本願の仏の慈悲心に縋るよりも、自力本願の自己鍛錬の方が、人間の主体的生き方と思うのだが・・・。
昔は『石の上にも三年』なんて好い言葉が在った。親に口答えをすれば、『トトッ端の黄色いヒヨコが、誰にご飯食べさせて貰ってるんだ。』の一刀両断の手が飛んで来た物で在る。
少なくとも6、70年前の日本の社会には押し並べて、そんな社会風潮が在った。家庭、社会に在って、大人は子供社会に在っては、誠に怖い物が在った。それでも、子供社会では、親、大人は何かに付けて『怒るのが商売』と一線を画して、『危うきに近寄らず』で遊び呆けて居たもので在る。
然しながら、普通に育って中高生とも為れば、『大人大人と威張るな大人、大人、子供の為れの果て。子供子供と威張るな子供。子供、大人の一滴』なんてデカンショ節を唄う年頃に到達する物なので在る。
親に為れば、『嗚呼、この道は何時か来た道。嗚呼、そうだよ。お母様と来た道』なんて事にも為る次第で在る。
幼年期・少年期・青年期・壮年中年期・初老期・老年期と人間の長い人生を振り返れば、其々の期は『一過性』ながらも、其れなりに真面目に各期間を経過して来れば、これ『蓄積の期間』と云うべき物で在ろう。
時間幅を採れば、短期だと過去・現在・未来、永く採れば、前世・現世・来世、宇宙の絶対幅を採れば、色即是空・空即是色の、梵我一如、不二一元論、森羅万象の理、絶対神のユダヤ、キリスト、アッラーで在る。
一説によると脳思考と云う代物は、相当なエネルギー消費を伴うとの由で在る。脳思考が苦手の私の様な凡夫は、余り難しい事は考えずに、一凡人としては、『心臓が動いて居る内は死ねない』の到達位で、ピンピンコロリの寂滅道を行くしか在るまい。
古来より、『馬鹿と戯けは歳の巡りが、他人様より遅い』と云われて居るので在るから、難解の淵に近寄らず、河川敷散歩位が身の丈で在ろう。へへへ。
おっ、降って来た。大笊を廊下に取り込んで、甕入れとする。丁度3甕収納と相成った。今年も元気に大過無く梅採り、梅漬け、梅干し収納と運んで一年の7/12の60%経過で在る。
パラパラと来ただけで収納すると、何んと薄日が差して来た。いやはや、本日も蒸し暑さの這い上がりでは無いか。午後の部を迎えるに当たって、シャワーで汗腺を解放させて置くと致そうか。やれやれ・・・。
遺憾いかん、朝飯を食べ過ぎて仕舞った。本日、曇天にして、風が好く通る。些か、秋風の様な感じでも在る。私の朝飯前に、キリギリス達には朝採りキュウリと天理教さんから頂戴した根付き葉レタスから活きの好い所を毟って、『新鮮餌』として遣ったので、好い声で鳴いて居る。
植物達には雨の恵みがたっぷり欲しい処では在ろうが、こんな曇天日が三連荘で在るから、雨は降らないだろう。本日は雨に遭わなければ、取り込んで甕入れとする心算で在る。
カレンダーを見れば日曜日で在るからして、満腹で眠く成ったら、寝るも好しのペースで好かろう。
『花の命は短し』で、白のカサブランカ、オレンジの鬼百合、藤色の曼殊沙華も草臥れて終わりを迎えて居る。色物カサブランカが蕾を大きくして居る。殆ど野生化した自生朝顔が随所に花を咲かせて居る。
ミンミンゼミ、アブラゼミが鳴いて、河川敷を行けば、塩辛トンボがお目見えして居る。秋のニラの花咲きなので在るが、今年は早々に花が咲き、松葉ボタンは本の真似事での貧弱さで在る。
自然界のサイクル、歳時記で在るから、毎年判で押した様な形で現れる訳でも無い。これも自然との日々の付き合いと云う物で在る。何の変哲もないマンネリ視角で在っても、年々(としどし)に違いを見たり、見付けるのも、毎日が日曜日の観察眼の一つなのだろう。マンネリにどっぷり浸かり、マンネリを愉しむのも一つの暮らし方で在る。
人間とは、原因を他に転嫁して仕舞うのを『習性』として居る動物らしい。それでも時として、一歩踏み込んだ話を交わして見たいと思うのが、古希坂独居老人と云うもので在る。実際の人で無くとも、動画見でのお付き合いでも好いので在る。
然しながら、その大体に於いて、『躾』が為されて居ないとか、『教育』が間違って居るとか、『政治』が悪い、『官僚・行政』が悪い。『社会』が悪いで、自分軸の欠落した安易過ぎる程の『表層迎合』をして仕舞う層が大半で在る。
教科書に、そう書いて在るとか、学校教育でそう習ったとか、新聞に書いて在った、NHK、民法テレビでそう解説をして居た、偉い学者さんがそう云って居た・・・etcで、口だけは達者な社会で在る。『本音の棘』が語られないのは、余り面白くない次第で在ろうか。
そんな世相に、私は如何しても付いて行けずに、『はい、左様でござんしたか。お邪魔致しました』で、すごすごとウスバカゲロウの幼虫宜しく、すり鉢のアリジゴクで息を潜めて落下獲物を待つか、はたまた冬の寒さに布団から頭だけを出しての省エネ蓑虫独居老人で妄想の夢を見るしかない次第で在る。
学校ではそう教えられたと、教育には『従順姿勢』にも拘わらず、親、兄弟、上司の『社会躾』には逆らうと云うので在るから、誠に解せないのが『人間行動』らしい。
逆らう事は、感情的反発にしろ、論理的反発にしろ、或る意味では『個』を持ち、育てると云う側面が在る。直感的違和感が基と為って、自説を構築する切っ掛けにも為る。多情多恨の成長期には、好奇・向学心、反発・反抗の情緒不安定さは在る物の、真面目に自己と向き合えば、『好い修行期』にも為る。
短絡的⇒を指せば、其処には喜怒哀楽の原初的真面目さが足りないから、行き着く処が、『他に安易転嫁する習性』を積み上げて行くのだろう。他力本願の仏の慈悲心に縋るよりも、自力本願の自己鍛錬の方が、人間の主体的生き方と思うのだが・・・。
昔は『石の上にも三年』なんて好い言葉が在った。親に口答えをすれば、『トトッ端の黄色いヒヨコが、誰にご飯食べさせて貰ってるんだ。』の一刀両断の手が飛んで来た物で在る。
少なくとも6、70年前の日本の社会には押し並べて、そんな社会風潮が在った。家庭、社会に在って、大人は子供社会に在っては、誠に怖い物が在った。それでも、子供社会では、親、大人は何かに付けて『怒るのが商売』と一線を画して、『危うきに近寄らず』で遊び呆けて居たもので在る。
然しながら、普通に育って中高生とも為れば、『大人大人と威張るな大人、大人、子供の為れの果て。子供子供と威張るな子供。子供、大人の一滴』なんてデカンショ節を唄う年頃に到達する物なので在る。
親に為れば、『嗚呼、この道は何時か来た道。嗚呼、そうだよ。お母様と来た道』なんて事にも為る次第で在る。
幼年期・少年期・青年期・壮年中年期・初老期・老年期と人間の長い人生を振り返れば、其々の期は『一過性』ながらも、其れなりに真面目に各期間を経過して来れば、これ『蓄積の期間』と云うべき物で在ろう。
時間幅を採れば、短期だと過去・現在・未来、永く採れば、前世・現世・来世、宇宙の絶対幅を採れば、色即是空・空即是色の、梵我一如、不二一元論、森羅万象の理、絶対神のユダヤ、キリスト、アッラーで在る。
一説によると脳思考と云う代物は、相当なエネルギー消費を伴うとの由で在る。脳思考が苦手の私の様な凡夫は、余り難しい事は考えずに、一凡人としては、『心臓が動いて居る内は死ねない』の到達位で、ピンピンコロリの寂滅道を行くしか在るまい。
古来より、『馬鹿と戯けは歳の巡りが、他人様より遅い』と云われて居るので在るから、難解の淵に近寄らず、河川敷散歩位が身の丈で在ろう。へへへ。
おっ、降って来た。大笊を廊下に取り込んで、甕入れとする。丁度3甕収納と相成った。今年も元気に大過無く梅採り、梅漬け、梅干し収納と運んで一年の7/12の60%経過で在る。
パラパラと来ただけで収納すると、何んと薄日が差して来た。いやはや、本日も蒸し暑さの這い上がりでは無いか。午後の部を迎えるに当たって、シャワーで汗腺を解放させて置くと致そうか。やれやれ・・・。
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