長駄文館・・・背中で・・・してる唐獅子牡丹為り。
- 2021/02/14
- 14:03
背中の唐獅子牡丹為り。(2/14/21)
さて起きるか、今日も好天の青空では無いか。大分、ニス臭が低減されて来た。籠った空気を全戸開放で、外気に繋げる。好いお天気で在るから、今日中には臭いの解消とも成ろう。自転車も大丈夫で在る。目出度し目出度しで在る。
昨夜は動画で東映映画の『日本侠客伝の予告編特集』を懐かしく見て居たので、任侠的夢を見て居た様で在る。根が単純にして感化され易い性向で在る。中高大と映画館に通って居た物で、予告編の独特の世界に学生時代、映画館の匂いが蘇ってニヤニヤして居た次第で在る。
ヤクザ映画は然程好きでは無かったので、映画の本数は圧倒的に洋画が多かったのだが、歳を経ると『故郷・邦画還り』をするのが、日本人の感覚と云う物なのだろう。
ラジオを聴いて居ると、福島県、宮城県では震度6強、弱の大きな地震が在って、惨状を呈して居るとの由。被害状況に就いての報告が続いて居る。テレビを点けて見て来る。崩落、倒壊、火災、噴水、停電、運休・・・etcと、被害の大きさ、東日本大震災のトラウマと心痛む映像ばかりで在る。数分見て、テレビを切る。ラジオもテープに切り替えて、朝飯後の一服とする。
さてさて、本日の好天、如何に過ごすべしやで在る。
陽光は春を告げて居るが、未だ二月半ばで在る。枝の始末、落ち葉の乾燥も然程進んでは居ないし、庭仕事は未だ先にすべしと云った処で在る。
廊下の鉢植え物にスプレー給水を施す。水を吸った苔の緑の蘇りの沙汰は、好い映りで在る。シクラメンも健気に咲き続け、アザレアの幼葉も一足早い春を見せて居る。
人間世界では、ギリシャ、ローマの古代から、パンと観劇、パンと見世物が施政の民衆誘導だったと云われて居るが、現代に於いても、雇用・福祉の生活保障と見世物の基本線は共通で在る。
見世物の分野が民生化されて、マスゴミ界が民衆に解り易く『短絡編集』をして、強者と弱者、善と悪の『二極対比』を殊更強調しての世論構築を商業ペースで、自分達に都合好く『愚民化誘導』をして居る。遠目に見れば、多分そんな光景なのだろう。
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らなきゃ損損は、古今東西の世の習わしなので在ろう。
『選良・良識の府』の枕詞も、今や完全に風化して、国会は週刊誌業界の完全下請化して居る『かわら版・陳腐の府』と為り下がって居る惨状で在る。マスコミテレビは、人間の単純化好みの二者択一方式に即して、表向き『編集権』とやらで、言葉の切り取り、言葉狩り、映像繋げで、悪意、恣意的方向へと大衆を誘導、煽動して商業的利益を得て居る存在と云って好かろう。
お江戸のかわら版なら、かわら版=『眉つば事、多し』で距離を持っての野次馬根性も働いたのだろうが、現代は鮮明な映像と活字、マスコミ解説の完成形を為して居るから、古代ギリシャ、ローマの施政者の支配と被支配の関係が巧妙に『糊塗』されて居る事に気付かない次第で在る。
加えて、赤信号皆で渡れば、怖く無いの『身勝手さ』が罷り通るので在るから、私の様な善良な末端底辺の貧民には、生き難い世の中にして、騒々しいばかりの表層の世の沙汰で在る。
身内後援会のオフレコ話に相当する様な、些細な受けを狙った言葉がちょん切りされて、前後の文脈、そっち抜け、話の意図も度外視されて、切り取り言葉だけが、団扇で煽りに煽り立てられて、木と紙の構造物と云われる三軒長屋をあっと云う間に火の海に呑み込んで仕舞う。
たった一つの火打石から零れた火種の失言が、マスゴミ、週刊誌の下請け業者の騒がしい『煽り風』に拍車が掛かって、撤回、陳謝に留まらず、『辞任の腹切り』にまで行かないと気が済まないと云う『社会ヒステリー状況』を呈して居る世は、異常と云うより他無かろう。
その癖、そもそもの火付け役のマスゴミ、週刊誌下請業者の野党議員の何癖報道、発言は真相が明らかに為って、それがフェイクニュースで在ったとしても、殆どの場合は糾弾もされずに、知らん振りの厚顔無恥を決め込む『騒いだ者勝ちの不埒集団』の態で在るから真に始末が悪い。
麻生、安倍、森と、真にご同情に堪えない次第で在る。一方、辻元、福島、レンホー、池上、枝野、小池、朝日、NHKと誘導・煽動の責任を一切取らない様は、公正さに欠けると思うのだが。
嘗て、『過ち、錯角、誤解は誰にも付き物』、『話せば分る』なんて言葉が一般化して居て、短気、早とちりは失敗の元などの『寛容性』が在った次第では在るが、文章問題からマークシートの単一正解と出題数の多さを以って、学業の成果を問う出題者側の効率性の追求が、短兵急な世相を作りだして来たのだろう。兎角、簡単便利な能率主義に偏重した表層の世は、物事を観察、判断して、総合的に物を考える個人の創造性を阻害する大要因に為って居るので無かろうか。
核家族化、子権化、個室化、個機化は、全体と個のバランスを崩壊させて、総合判断の幅と深みを崩壊の道に進ませて居る様に思える次第で在る。へへへ。
一方、やれ子権、個権、個性などの言葉ラッシュと共に、生物の多様性などとインテリ語を発する許容度を見せながら、考え、意見の対立する人間界に於ける多様性に対する許容度の無さには、思考論理性の整合性が保たれて居ない現象は、真に奇異にして可笑しな事では無かろうか。
♪義理と人情、秤に掛けりゃ、義理が重たい男の世界。幼馴染の観音様にゃ、俺のこころはお見通し。背中で吠えてる唐獅子牡丹。
♪親の意見を承知で拗ねて、曲りくねった六区の風よ。積り重ねた不孝の数を、何と詫びようお袋に。背中で泣いてる唐獅子牡丹。
♪朧月でも隅田の水に、昔ながらの濁らぬ光。夜明けの来るそれまでは、意地で支える夢一つ、背中で呼んでる唐獅子牡丹。
脊中の唐獅子牡丹が、『吠えてる』、『泣いて居る』、『呼んで居る』。好い表現では無いか。唐獅子牡丹は漢(おとこ)の日本精神で在る。
所詮、西洋被れの左捲き連には解らない日本人の心情、生き様なのだろう。いやはや、困った次第で在る。へへへ。
さてさて、私は春日に散歩でもして参りましょうかね。
さて起きるか、今日も好天の青空では無いか。大分、ニス臭が低減されて来た。籠った空気を全戸開放で、外気に繋げる。好いお天気で在るから、今日中には臭いの解消とも成ろう。自転車も大丈夫で在る。目出度し目出度しで在る。
昨夜は動画で東映映画の『日本侠客伝の予告編特集』を懐かしく見て居たので、任侠的夢を見て居た様で在る。根が単純にして感化され易い性向で在る。中高大と映画館に通って居た物で、予告編の独特の世界に学生時代、映画館の匂いが蘇ってニヤニヤして居た次第で在る。
ヤクザ映画は然程好きでは無かったので、映画の本数は圧倒的に洋画が多かったのだが、歳を経ると『故郷・邦画還り』をするのが、日本人の感覚と云う物なのだろう。
ラジオを聴いて居ると、福島県、宮城県では震度6強、弱の大きな地震が在って、惨状を呈して居るとの由。被害状況に就いての報告が続いて居る。テレビを点けて見て来る。崩落、倒壊、火災、噴水、停電、運休・・・etcと、被害の大きさ、東日本大震災のトラウマと心痛む映像ばかりで在る。数分見て、テレビを切る。ラジオもテープに切り替えて、朝飯後の一服とする。
さてさて、本日の好天、如何に過ごすべしやで在る。
陽光は春を告げて居るが、未だ二月半ばで在る。枝の始末、落ち葉の乾燥も然程進んでは居ないし、庭仕事は未だ先にすべしと云った処で在る。
廊下の鉢植え物にスプレー給水を施す。水を吸った苔の緑の蘇りの沙汰は、好い映りで在る。シクラメンも健気に咲き続け、アザレアの幼葉も一足早い春を見せて居る。
人間世界では、ギリシャ、ローマの古代から、パンと観劇、パンと見世物が施政の民衆誘導だったと云われて居るが、現代に於いても、雇用・福祉の生活保障と見世物の基本線は共通で在る。
見世物の分野が民生化されて、マスゴミ界が民衆に解り易く『短絡編集』をして、強者と弱者、善と悪の『二極対比』を殊更強調しての世論構築を商業ペースで、自分達に都合好く『愚民化誘導』をして居る。遠目に見れば、多分そんな光景なのだろう。
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らなきゃ損損は、古今東西の世の習わしなので在ろう。
『選良・良識の府』の枕詞も、今や完全に風化して、国会は週刊誌業界の完全下請化して居る『かわら版・陳腐の府』と為り下がって居る惨状で在る。マスコミテレビは、人間の単純化好みの二者択一方式に即して、表向き『編集権』とやらで、言葉の切り取り、言葉狩り、映像繋げで、悪意、恣意的方向へと大衆を誘導、煽動して商業的利益を得て居る存在と云って好かろう。
お江戸のかわら版なら、かわら版=『眉つば事、多し』で距離を持っての野次馬根性も働いたのだろうが、現代は鮮明な映像と活字、マスコミ解説の完成形を為して居るから、古代ギリシャ、ローマの施政者の支配と被支配の関係が巧妙に『糊塗』されて居る事に気付かない次第で在る。
加えて、赤信号皆で渡れば、怖く無いの『身勝手さ』が罷り通るので在るから、私の様な善良な末端底辺の貧民には、生き難い世の中にして、騒々しいばかりの表層の世の沙汰で在る。
身内後援会のオフレコ話に相当する様な、些細な受けを狙った言葉がちょん切りされて、前後の文脈、そっち抜け、話の意図も度外視されて、切り取り言葉だけが、団扇で煽りに煽り立てられて、木と紙の構造物と云われる三軒長屋をあっと云う間に火の海に呑み込んで仕舞う。
たった一つの火打石から零れた火種の失言が、マスゴミ、週刊誌の下請け業者の騒がしい『煽り風』に拍車が掛かって、撤回、陳謝に留まらず、『辞任の腹切り』にまで行かないと気が済まないと云う『社会ヒステリー状況』を呈して居る世は、異常と云うより他無かろう。
その癖、そもそもの火付け役のマスゴミ、週刊誌下請業者の野党議員の何癖報道、発言は真相が明らかに為って、それがフェイクニュースで在ったとしても、殆どの場合は糾弾もされずに、知らん振りの厚顔無恥を決め込む『騒いだ者勝ちの不埒集団』の態で在るから真に始末が悪い。
麻生、安倍、森と、真にご同情に堪えない次第で在る。一方、辻元、福島、レンホー、池上、枝野、小池、朝日、NHKと誘導・煽動の責任を一切取らない様は、公正さに欠けると思うのだが。
嘗て、『過ち、錯角、誤解は誰にも付き物』、『話せば分る』なんて言葉が一般化して居て、短気、早とちりは失敗の元などの『寛容性』が在った次第では在るが、文章問題からマークシートの単一正解と出題数の多さを以って、学業の成果を問う出題者側の効率性の追求が、短兵急な世相を作りだして来たのだろう。兎角、簡単便利な能率主義に偏重した表層の世は、物事を観察、判断して、総合的に物を考える個人の創造性を阻害する大要因に為って居るので無かろうか。
核家族化、子権化、個室化、個機化は、全体と個のバランスを崩壊させて、総合判断の幅と深みを崩壊の道に進ませて居る様に思える次第で在る。へへへ。
一方、やれ子権、個権、個性などの言葉ラッシュと共に、生物の多様性などとインテリ語を発する許容度を見せながら、考え、意見の対立する人間界に於ける多様性に対する許容度の無さには、思考論理性の整合性が保たれて居ない現象は、真に奇異にして可笑しな事では無かろうか。
♪義理と人情、秤に掛けりゃ、義理が重たい男の世界。幼馴染の観音様にゃ、俺のこころはお見通し。背中で吠えてる唐獅子牡丹。
♪親の意見を承知で拗ねて、曲りくねった六区の風よ。積り重ねた不孝の数を、何と詫びようお袋に。背中で泣いてる唐獅子牡丹。
♪朧月でも隅田の水に、昔ながらの濁らぬ光。夜明けの来るそれまでは、意地で支える夢一つ、背中で呼んでる唐獅子牡丹。
脊中の唐獅子牡丹が、『吠えてる』、『泣いて居る』、『呼んで居る』。好い表現では無いか。唐獅子牡丹は漢(おとこ)の日本精神で在る。
所詮、西洋被れの左捲き連には解らない日本人の心情、生き様なのだろう。いやはや、困った次第で在る。へへへ。
さてさて、私は春日に散歩でもして参りましょうかね。
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