長駄文館・・・10月も、早や半ば為り。
- 2021/10/14
- 13:48
10月も早や、半ば為り。(10/14/21)
昨日の雨日から一転して、好いお天道さんの輝きで在る。全戸開放、自転車出しをしての炊飯器ONで、庭の落ち葉を熊手で搔き集めて落ち葉溜めに加えて、暫しの秋の庭風情を愉しむ。小菊の開花が始まって来て、自然の成り行き任せの庭で在るから、野趣が在る。べんり菜の第一陣が、立派に成長して来た。少し採って見ようとは思ったが、モンシロ蝶の幼虫の食草と為って居るらしく、穴明きと為って居る。
先日、天理教さんから、菜っ葉を頂戴して来て、塩漬けと為って居るから止めて置く事にする。高校生の最後の自転車通学が通り過ぎて行く。
妖怪様部屋の廊下上がりの芝桜と芝雑草の混植の見苦しさで在ったから、全部を掘り起こして、雑草退治をして植え直した。芝桜の根付きは旺盛で在るから、そんな荒療治をしても、水さえ遣って置けば絶える事は無い。水遣りと昨日のたっぷりの雨で、根付きが進む事だろう。鉢植えアザレアの一本に、幾つか赤い蕾が膨らんで居る。山ツツジの二期咲と同様に、今年は変調を兆して居る様で在る。
キリギリスにY差し入れのリンゴスライスを入れて遣り、ヨッコラセと、日光一杯の小部屋に座る。モーニングコーヒーと煙草の一服を付けて、朝飯前のPCに向かう。
昨日はYに諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を聞いて見ると、立て板に水の如く説法をして呉れた。論語、仏教、キリスト教と云った宗教に関心が在ると云う事で、そんな関連本を読んで居る男で在る。
Yが来た時には、ラジオの国会中継をBGMに流して居たので、お前、そんな下らん物を好く聞いて居られるなぁと笑われて仕舞った。『そう、馬鹿にするな。俺は頭が悪いから、なるべく多くの人の考えを聞かないと、判断が出来んのだわ。』
そんな処が自分に興味の無い物には、『下らんの一笑』に付して仕舞う処が私とYの違いなので在ろう。退屈な中にも、得る物は多々在る。
論語、仏典、聖書、小説、映画、詩歌、歴史、政治経済、時事社会問題・・・etcと分野に違いは在ろうが、聞く耳、感じる気持ちが在れば、何らかの対話が生まれると思うのだが、そう云ったタイプで無いのが、Yの性格で在る。
所謂、無駄に対する耐性が欠けて居る。従って得た物を応用転化して、自分語で物を語る奥行きの無い処が、勿体無い深みの無さに通じて居るらしい。何か云えば、強制は好くない、人其々と態の好い逃げを打つ処が、一見の『人間付き合い術』と考えて居る節が垣間見える次第で在る。
知識の応用・活用が出来ずに、知識の領域で留まって終い、語らいの場での抽象語・観念語と娑婆実態語の交換術が出来て居ないのが、個性の無さと為って居るらしい。書物の好い所取り、摘み食いで、有名、無名を物の尺度に置いて居る処が大の様子で在るから、自分の関心の無い物には、下らねぇ、好くもそんな暇が在る物だと、悪態を付くのだろう。
私に言わせれば、それは好く無いのお諭しが、論語、仏典、聖書、禅の訓えの中にふんだんに書かれて居るのだろうし、禅修業時には説法として話されて居たのだろうに、と思うのだが・・・。
まぁ、それでも人間観察上、色んなタイプの人と話を交わす事は、自分自身の役に立つ事で在るし、心置きなくスケベ話も出来る同期の桜で在るから、好い話相手の一人で在る。
昨日のお気に入りのアゼルバイジャン人の山で暮らすアウトドア料理は、牛頭2個と足を素材とした、大マサカリ、各種のナイフで調理して行く豪快煮込み料理で在った。
中国、東南アジアの頭蓋骨を外した豚頭部料理との比較見をしたり、魚の国・日本の鮭の頭、鰭、尾、粗を丸ごと野菜と煮込む三平汁を比較対象として、肉食文化と魚文化の対照映像とさせて貰った次第で在る。
日本には、マグロの兜焼きと云う豪快な物が在るが、他の一つは手作り窯内での牛頭焼きの様で、人間とは、国人種の違いこそ在れ、美味い部位を知って居る物とつくづく感心させられた次第で在る。
頂戴した命は悉く頂戴して、『成仏』させる古代からの食文化は、何処も同様の倣いの様で在る。
色浅黒く、中年で逞しい肉体に、物静かな端正なアラブ顔のアウトドア調理人の立ち振舞いは、内面の充実さを圧倒感として体出させて、映像を観て居るだけで色々の面で教えて呉れる物が多い。季節の替わり、放牧されていた羊、牛達が、彼の居住区に山から下りて来て居る。犬が居て、猫が居る。
さてさて、腹の虫も鳴いて来た次第で在るから、朝昼兼食の用意をして、食後は午後の部に移行すると致そうぞ。
食後の天気の好さに、小菊の通路食み出しに麻紐を張って、見栄えを整えて置く。これで、野趣と整理のコラボがマッチする次第で在る。へへへ。
本日、衆議員の解散、選挙戦の始まりで各党の代表インタビューが流れて居る。気温の高さに、廊下キリギリスが元気に鳴いて居る。無風の穏やかな午後で在る。
昨日の雨日から一転して、好いお天道さんの輝きで在る。全戸開放、自転車出しをしての炊飯器ONで、庭の落ち葉を熊手で搔き集めて落ち葉溜めに加えて、暫しの秋の庭風情を愉しむ。小菊の開花が始まって来て、自然の成り行き任せの庭で在るから、野趣が在る。べんり菜の第一陣が、立派に成長して来た。少し採って見ようとは思ったが、モンシロ蝶の幼虫の食草と為って居るらしく、穴明きと為って居る。
先日、天理教さんから、菜っ葉を頂戴して来て、塩漬けと為って居るから止めて置く事にする。高校生の最後の自転車通学が通り過ぎて行く。
妖怪様部屋の廊下上がりの芝桜と芝雑草の混植の見苦しさで在ったから、全部を掘り起こして、雑草退治をして植え直した。芝桜の根付きは旺盛で在るから、そんな荒療治をしても、水さえ遣って置けば絶える事は無い。水遣りと昨日のたっぷりの雨で、根付きが進む事だろう。鉢植えアザレアの一本に、幾つか赤い蕾が膨らんで居る。山ツツジの二期咲と同様に、今年は変調を兆して居る様で在る。
キリギリスにY差し入れのリンゴスライスを入れて遣り、ヨッコラセと、日光一杯の小部屋に座る。モーニングコーヒーと煙草の一服を付けて、朝飯前のPCに向かう。
昨日はYに諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を聞いて見ると、立て板に水の如く説法をして呉れた。論語、仏教、キリスト教と云った宗教に関心が在ると云う事で、そんな関連本を読んで居る男で在る。
Yが来た時には、ラジオの国会中継をBGMに流して居たので、お前、そんな下らん物を好く聞いて居られるなぁと笑われて仕舞った。『そう、馬鹿にするな。俺は頭が悪いから、なるべく多くの人の考えを聞かないと、判断が出来んのだわ。』
そんな処が自分に興味の無い物には、『下らんの一笑』に付して仕舞う処が私とYの違いなので在ろう。退屈な中にも、得る物は多々在る。
論語、仏典、聖書、小説、映画、詩歌、歴史、政治経済、時事社会問題・・・etcと分野に違いは在ろうが、聞く耳、感じる気持ちが在れば、何らかの対話が生まれると思うのだが、そう云ったタイプで無いのが、Yの性格で在る。
所謂、無駄に対する耐性が欠けて居る。従って得た物を応用転化して、自分語で物を語る奥行きの無い処が、勿体無い深みの無さに通じて居るらしい。何か云えば、強制は好くない、人其々と態の好い逃げを打つ処が、一見の『人間付き合い術』と考えて居る節が垣間見える次第で在る。
知識の応用・活用が出来ずに、知識の領域で留まって終い、語らいの場での抽象語・観念語と娑婆実態語の交換術が出来て居ないのが、個性の無さと為って居るらしい。書物の好い所取り、摘み食いで、有名、無名を物の尺度に置いて居る処が大の様子で在るから、自分の関心の無い物には、下らねぇ、好くもそんな暇が在る物だと、悪態を付くのだろう。
私に言わせれば、それは好く無いのお諭しが、論語、仏典、聖書、禅の訓えの中にふんだんに書かれて居るのだろうし、禅修業時には説法として話されて居たのだろうに、と思うのだが・・・。
まぁ、それでも人間観察上、色んなタイプの人と話を交わす事は、自分自身の役に立つ事で在るし、心置きなくスケベ話も出来る同期の桜で在るから、好い話相手の一人で在る。
昨日のお気に入りのアゼルバイジャン人の山で暮らすアウトドア料理は、牛頭2個と足を素材とした、大マサカリ、各種のナイフで調理して行く豪快煮込み料理で在った。
中国、東南アジアの頭蓋骨を外した豚頭部料理との比較見をしたり、魚の国・日本の鮭の頭、鰭、尾、粗を丸ごと野菜と煮込む三平汁を比較対象として、肉食文化と魚文化の対照映像とさせて貰った次第で在る。
日本には、マグロの兜焼きと云う豪快な物が在るが、他の一つは手作り窯内での牛頭焼きの様で、人間とは、国人種の違いこそ在れ、美味い部位を知って居る物とつくづく感心させられた次第で在る。
頂戴した命は悉く頂戴して、『成仏』させる古代からの食文化は、何処も同様の倣いの様で在る。
色浅黒く、中年で逞しい肉体に、物静かな端正なアラブ顔のアウトドア調理人の立ち振舞いは、内面の充実さを圧倒感として体出させて、映像を観て居るだけで色々の面で教えて呉れる物が多い。季節の替わり、放牧されていた羊、牛達が、彼の居住区に山から下りて来て居る。犬が居て、猫が居る。
さてさて、腹の虫も鳴いて来た次第で在るから、朝昼兼食の用意をして、食後は午後の部に移行すると致そうぞ。
食後の天気の好さに、小菊の通路食み出しに麻紐を張って、見栄えを整えて置く。これで、野趣と整理のコラボがマッチする次第で在る。へへへ。
本日、衆議員の解散、選挙戦の始まりで各党の代表インタビューが流れて居る。気温の高さに、廊下キリギリスが元気に鳴いて居る。無風の穏やかな午後で在る。
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