長駄文館・・・愚痴話を頂戴する為り。
- 2021/11/02
- 13:38
愚痴相手をさせられる為り。(11/2/21)
朝が始まったか。未だ起きるに及ばずの寝床アイドリングのお時間とする。これは毎日が日曜日の古希坂親父の特権とも云える時間帯で在る。然しながら、尿意を催しての目覚めで在るから、その内にトイレ立ちと共にの起床と相成る次第で在る。比較的暖かい朝で、全戸開放の空気の総入れ替えをしながら、小部屋での朝茶と煙草の一服を燻らせての庭眺めタイムとする。
ラジオで8時のニュースを聴きながら、朝靄の中のお天道さんの眩しさを除けながらの、今日は何をするかで在る。昨日の買い物時で、確か籠に入れた筈のサバ節が帰って来ると無かった次第で、遺憾いかんの態で在った。
お天道さんが出たら、布団に日光浴をさせてボチボチペースで好かろう。買い物忘れを口実に散歩も好かろう。昨日の虫歯治療は大変な目に遭ったが、治療が済めば行って好かったの安堵感で在る。月に一度のYとの言いたい放題のトークインタバルの女族様への罵詈雑言に談論風発の沙汰は、傍目からしたらとんでもない爺連のじゃれ合いで在る。宗教の教えに関心の在るYと宗教の歴史にしか関心の無い私との違いは、それなりに参考と為る。人其々、拘りが在るのは当然の次第で在る。
睡蓮鉢の模様は、雄4匹が一丁前に為って来て、時々、雄の対抗行動を示す様に為って居るが、未だでっぷり肥った雌達からは稚魚の産み落としが確認出来ない。キリギリスも未だ鳴かないが、大分陽が差して来たから、その内に鳴き始める事だろう。今の処、シジューカラの来庭が見られずで在る。
スーパーの開店時間に合わせて、布団の干しをしての外気吸いに出向く。楓、ドウダンツツジの紅葉が鮮やかに成って来た物で在る。そう云えば出て来る時に、庭のサフランを見た。東山系の里山は松喰い虫の哀れさでは在るが、上の山脈には黄葉の下りで在る。コンビニで煙草を2個、下のスーパーでサバ節を買い、鱈の白子が在ったので、豆腐、キノコを買って朝は澄まし汁とする。
時間に縛られない食事と云う物は、或る種の贅沢と云う物で在る。何も料理人の高級料理だけが美味い訳では無い。時季の物を買って来て、DIYで庶民の経験知と工夫で食する。
庶民と云えば、Yの野郎は私の前で見栄を扱いて、しいに生きる者の感覚でと抜かすから。
『この馬鹿野郎。それは市井と書いて、『シセイ』と読むんじゃい。格好付けた途端に、頭(おつむ)の程度が晒されるってもんだぜや。同じ二本線出てるんだから、シャキッとせんかい、シャキッ』と、と白髪頭をひっぱたいて呉れた次第で在る。
「おっそうか、俺は優しい字だったから、ズーとそう読んで来ただけどさ。いゃ~、この歳まで知らなんだ。サンキュー、サンキュー。」
「俺は生意気に『恣意』なんて言葉が出て来たんで、見直したんだけど、前後の辻褄が合わんから、『喝』を入れて遣ったんだぜや。
町会の天敵古参爺連の前で、そんな事言ったら馬脚が現われて『村八分』にされちまうぜ。相手が俺だっから、命拾いしたってもんだぜや。生兵法は怪我の元だって言うから、国語辞典は手元に置くのが、『男の嗜み』ってもんだぜや。よもや、油田井戸を油井(ゆい)なんて読んで無えだろうな。『ゆせい』でゴザンスよ。へへへ。」
Yに言わせると、来る度に格調高く、速射砲で撃ち込まれる口演で、頭の整理が追い付かずに、脳疲労障害に陥るそうな。
相も変わらずの底辺貧民の朝飯の美味さを終えて、Yとの爺タイムの振り返りの文字起しをして居ると、玄関に聞き覚えの在る金持ち爺の声で在る。
奥さんを亡くして、2年の豪邸で独り暮らしをする82歳で在る。寂しくて死にたい、死にたいの愚痴溢しで在る。無碍にも出来ず、暫くの心ボランティアカウセリングと諦めて、お付き合いとする。
金に不自由はしないが友達の無さが、寂しさの根源なのだろう。然しながら、人生の財産と云う物は、有形の財産と同様に無形の友人財産との総和で在るから、何でも話せる友人の存否は、歳をとってからの独り暮らしを支える財産価値と為って来る。人間、有形財産の構築と共に、無形財産の友作りをして来なかった反動は、自業自得のボディブローの様に老躯と精神に悪作用を齎す病巣の根を張って行くのだろう。
自助、共助、連助、公助と福祉用語は数在れど、家族解体の進んだ核家族化の下、老後の独り暮らしの『人間の心の実情』が顕在化して来た時代に差し掛かって来た次第で在る。
人の生き方、趣味の構築は、一朝一夕に叶う物では無し、持った者と持てなかった者との差が歴然と現われて来るのが、70代、80代の進みと云う事を知らされて来る次第で在る。
さてさて、1時を回ったか。布団を取り入れて、軽く昼を入れて、自助の頁捲りのお時間と致しまする。
朝が始まったか。未だ起きるに及ばずの寝床アイドリングのお時間とする。これは毎日が日曜日の古希坂親父の特権とも云える時間帯で在る。然しながら、尿意を催しての目覚めで在るから、その内にトイレ立ちと共にの起床と相成る次第で在る。比較的暖かい朝で、全戸開放の空気の総入れ替えをしながら、小部屋での朝茶と煙草の一服を燻らせての庭眺めタイムとする。
ラジオで8時のニュースを聴きながら、朝靄の中のお天道さんの眩しさを除けながらの、今日は何をするかで在る。昨日の買い物時で、確か籠に入れた筈のサバ節が帰って来ると無かった次第で、遺憾いかんの態で在った。
お天道さんが出たら、布団に日光浴をさせてボチボチペースで好かろう。買い物忘れを口実に散歩も好かろう。昨日の虫歯治療は大変な目に遭ったが、治療が済めば行って好かったの安堵感で在る。月に一度のYとの言いたい放題のトークインタバルの女族様への罵詈雑言に談論風発の沙汰は、傍目からしたらとんでもない爺連のじゃれ合いで在る。宗教の教えに関心の在るYと宗教の歴史にしか関心の無い私との違いは、それなりに参考と為る。人其々、拘りが在るのは当然の次第で在る。
睡蓮鉢の模様は、雄4匹が一丁前に為って来て、時々、雄の対抗行動を示す様に為って居るが、未だでっぷり肥った雌達からは稚魚の産み落としが確認出来ない。キリギリスも未だ鳴かないが、大分陽が差して来たから、その内に鳴き始める事だろう。今の処、シジューカラの来庭が見られずで在る。
スーパーの開店時間に合わせて、布団の干しをしての外気吸いに出向く。楓、ドウダンツツジの紅葉が鮮やかに成って来た物で在る。そう云えば出て来る時に、庭のサフランを見た。東山系の里山は松喰い虫の哀れさでは在るが、上の山脈には黄葉の下りで在る。コンビニで煙草を2個、下のスーパーでサバ節を買い、鱈の白子が在ったので、豆腐、キノコを買って朝は澄まし汁とする。
時間に縛られない食事と云う物は、或る種の贅沢と云う物で在る。何も料理人の高級料理だけが美味い訳では無い。時季の物を買って来て、DIYで庶民の経験知と工夫で食する。
庶民と云えば、Yの野郎は私の前で見栄を扱いて、しいに生きる者の感覚でと抜かすから。
『この馬鹿野郎。それは市井と書いて、『シセイ』と読むんじゃい。格好付けた途端に、頭(おつむ)の程度が晒されるってもんだぜや。同じ二本線出てるんだから、シャキッとせんかい、シャキッ』と、と白髪頭をひっぱたいて呉れた次第で在る。
「おっそうか、俺は優しい字だったから、ズーとそう読んで来ただけどさ。いゃ~、この歳まで知らなんだ。サンキュー、サンキュー。」
「俺は生意気に『恣意』なんて言葉が出て来たんで、見直したんだけど、前後の辻褄が合わんから、『喝』を入れて遣ったんだぜや。
町会の天敵古参爺連の前で、そんな事言ったら馬脚が現われて『村八分』にされちまうぜ。相手が俺だっから、命拾いしたってもんだぜや。生兵法は怪我の元だって言うから、国語辞典は手元に置くのが、『男の嗜み』ってもんだぜや。よもや、油田井戸を油井(ゆい)なんて読んで無えだろうな。『ゆせい』でゴザンスよ。へへへ。」
Yに言わせると、来る度に格調高く、速射砲で撃ち込まれる口演で、頭の整理が追い付かずに、脳疲労障害に陥るそうな。
相も変わらずの底辺貧民の朝飯の美味さを終えて、Yとの爺タイムの振り返りの文字起しをして居ると、玄関に聞き覚えの在る金持ち爺の声で在る。
奥さんを亡くして、2年の豪邸で独り暮らしをする82歳で在る。寂しくて死にたい、死にたいの愚痴溢しで在る。無碍にも出来ず、暫くの心ボランティアカウセリングと諦めて、お付き合いとする。
金に不自由はしないが友達の無さが、寂しさの根源なのだろう。然しながら、人生の財産と云う物は、有形の財産と同様に無形の友人財産との総和で在るから、何でも話せる友人の存否は、歳をとってからの独り暮らしを支える財産価値と為って来る。人間、有形財産の構築と共に、無形財産の友作りをして来なかった反動は、自業自得のボディブローの様に老躯と精神に悪作用を齎す病巣の根を張って行くのだろう。
自助、共助、連助、公助と福祉用語は数在れど、家族解体の進んだ核家族化の下、老後の独り暮らしの『人間の心の実情』が顕在化して来た時代に差し掛かって来た次第で在る。
人の生き方、趣味の構築は、一朝一夕に叶う物では無し、持った者と持てなかった者との差が歴然と現われて来るのが、70代、80代の進みと云う事を知らされて来る次第で在る。
さてさて、1時を回ったか。布団を取り入れて、軽く昼を入れて、自助の頁捲りのお時間と致しまする。
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