長駄文館・・・晴れた為り。
- 2022/05/10
- 12:23
晴れた為り。(5/10/22)
やっと晴れた朝で在る。降り続いた雨を、葉に載せた庭の花々をしおらせて居る。尤(もっと)も、乾燥が続いて居た地面で在るから、晴れさえすれば成長期の植物達には充分なお湿りの結果と成ろう。本日は朝の歯医者で、時間が掛かるとの由で在る。帰って来てから、葉野菜の間引きをすると致そう。
さて大著・名著は、何度読んでも惹き付けられる物で在る。元来がスカンポ脳で在るから、備忘録を含めて5冊のローテーションを回して居ると、覚えた筈が忘れてばかりで『情け無し』の感はする物の、記述に新しい思い、納得が進んで、飽きない処が、大著・名著の所以なので在ろう。
『継続は力為り』にして、『継続は呆け防止』と為ろうから、人間、趣味のライフワークを持たねば、毎日が日曜日生活の時間埋め、糧には為らない次第でも在る。
学童期と違って、摂取力・記憶力の衰えは如何しようも無いが、人生の年輪を重ねて来た経験知・経験値で咀嚼力の増加で推察力が備わって、感知力・読解力が湧いて来て居るらしいから、行間を読む力も出て来て居るのだろう。
何事も、辛抱が肝要で在る。
『一書、悉(ことご)く信ずるは、書無きが如し。』の陥穽(かんせい=落とし穴)に陥らずに、大著・名著に自己を確認する読み方を身に着けたいと考えて居る次第で在る。
そんな諸々の側面、総合力が備わって来て、活字・書物は観察・鑑賞・思索の対象と為って来るのだろう。
何事も元手も無く、余裕の無い時期は、元手作りに詰め込み優先の丸暗記が、学ぶの主体と為らざるを得ないのが、物事の習いなのだろう。丸暗記をして元手を増やす事で、基礎取得をした後に余裕が生まれて来て、物事に対する観察・鑑賞・思索の『知る』の段階に移行して行くのが、一般的過程なのだろう。人間とは分野が違っても、時期々に応じて、努力をして行く事、自己を鍛える事が『成長過程』と為って来るのだろう。
そして、その知る事の中に愉しみを感じ始めるのが、古希坂住人の姿かも知れぬ。
鉄は熱い内に打って、老後は鉄器の『日本刀の美』を愉しむ余生としたい物で在る。
ブロンソンさんとの月に一度の歴史談義、弟との意見交換などに、多かれ少なかれ、それが活用される機会を得て居るので、インプット、アウトプットの頭の整理が出来るので、有難いと感謝して居る次第で在る。
さてさて、時間で在る。歯医者に行って来るべしで在る。
其処へ慌ただしく玄関が開いて、出る出るのトイレの飛び込みで在る。
『ああ、間一発のセーフ』と言って居るトイレの主で在る。聞けば公衆トイレに入った処、紙が無くて実家にすっ飛ばして来たと云う弟で在る。直ぐ現場復帰をしなければ為らないとの由で、煙草の一本吸いで現場直行で在る。
会社には5時半に帰って来れるとやらで、その頃に私が会社に行く旨を伝えて置く。私も自転車に乗ってのヒィコラ、ヒィコラの上り勾配の息切れペダル漕ぎに移行する。
「今日は時間が掛かるから、頑張って。気合い入れて、待ってたからね。」
「はいはい、覚悟して来んね。まな板の爺だから、全てお任せだいね。」
先生から治療の説明を受けて、麻酔注射を4か所受けての口開け治療台で在る。いやはや、私も緊張疲れのヘトヘト為れど、さぞかし先生も疲れた筈で在る。今度は18日の歯入れとの由。右半分の口中のボワンとした感覚に、やれやれの帰りで在る。
個人スーパーに寄って、総菜類と好物の塩サバ、明太子を買って帰る。
筋肉痛の軟膏と旅行記を出すと、軟膏だけ持って、汚れるから旅行記は持って来て呉れとの事で在った。沢庵と新生姜の炒め煮と個人スーパーに山ウドが在ったら、酢味噌和えにして持って行って遣ろうと考えて、寄ったのだが無かった。
旅行記に一枚絵を描こうと思ったのだが、皆スマホ撮りを盛んにして居たので、私の下手絵より、世界有数の鮮やかな海ショットに勝るもの無しで、その中からチョイスして、旅行記に挟み込むのも各自の手作り感で様(さま)に為ると、考え直した次第でも在る。
時間が在るから早目に行って、写真入り旅行記のサンプル作りも旅行会の仲間への貢献の一つでも在ろう。アハハ。
中禅寺湖の親方(Sマリーンの共同経営者)も日本史が趣味で、中々のインテリ女性で、ヘロヘロ爺の私の体調を気遣って呉れて居るとの由。仕事が一段落したら、骨休めに信州に来るとの由。白骨温泉泊とするから、兄弟は相部屋とするから、思う存分、歴史話を交換し合えば好いと伝えて居るとの由。
いやはや、古希坂兄弟では在るが、未だ未だ世間体には魅力の在る兄弟らしい。
やっと晴れた朝で在る。降り続いた雨を、葉に載せた庭の花々をしおらせて居る。尤(もっと)も、乾燥が続いて居た地面で在るから、晴れさえすれば成長期の植物達には充分なお湿りの結果と成ろう。本日は朝の歯医者で、時間が掛かるとの由で在る。帰って来てから、葉野菜の間引きをすると致そう。
さて大著・名著は、何度読んでも惹き付けられる物で在る。元来がスカンポ脳で在るから、備忘録を含めて5冊のローテーションを回して居ると、覚えた筈が忘れてばかりで『情け無し』の感はする物の、記述に新しい思い、納得が進んで、飽きない処が、大著・名著の所以なので在ろう。
『継続は力為り』にして、『継続は呆け防止』と為ろうから、人間、趣味のライフワークを持たねば、毎日が日曜日生活の時間埋め、糧には為らない次第でも在る。
学童期と違って、摂取力・記憶力の衰えは如何しようも無いが、人生の年輪を重ねて来た経験知・経験値で咀嚼力の増加で推察力が備わって、感知力・読解力が湧いて来て居るらしいから、行間を読む力も出て来て居るのだろう。
何事も、辛抱が肝要で在る。
『一書、悉(ことご)く信ずるは、書無きが如し。』の陥穽(かんせい=落とし穴)に陥らずに、大著・名著に自己を確認する読み方を身に着けたいと考えて居る次第で在る。
そんな諸々の側面、総合力が備わって来て、活字・書物は観察・鑑賞・思索の対象と為って来るのだろう。
何事も元手も無く、余裕の無い時期は、元手作りに詰め込み優先の丸暗記が、学ぶの主体と為らざるを得ないのが、物事の習いなのだろう。丸暗記をして元手を増やす事で、基礎取得をした後に余裕が生まれて来て、物事に対する観察・鑑賞・思索の『知る』の段階に移行して行くのが、一般的過程なのだろう。人間とは分野が違っても、時期々に応じて、努力をして行く事、自己を鍛える事が『成長過程』と為って来るのだろう。
そして、その知る事の中に愉しみを感じ始めるのが、古希坂住人の姿かも知れぬ。
鉄は熱い内に打って、老後は鉄器の『日本刀の美』を愉しむ余生としたい物で在る。
ブロンソンさんとの月に一度の歴史談義、弟との意見交換などに、多かれ少なかれ、それが活用される機会を得て居るので、インプット、アウトプットの頭の整理が出来るので、有難いと感謝して居る次第で在る。
さてさて、時間で在る。歯医者に行って来るべしで在る。
其処へ慌ただしく玄関が開いて、出る出るのトイレの飛び込みで在る。
『ああ、間一発のセーフ』と言って居るトイレの主で在る。聞けば公衆トイレに入った処、紙が無くて実家にすっ飛ばして来たと云う弟で在る。直ぐ現場復帰をしなければ為らないとの由で、煙草の一本吸いで現場直行で在る。
会社には5時半に帰って来れるとやらで、その頃に私が会社に行く旨を伝えて置く。私も自転車に乗ってのヒィコラ、ヒィコラの上り勾配の息切れペダル漕ぎに移行する。
「今日は時間が掛かるから、頑張って。気合い入れて、待ってたからね。」
「はいはい、覚悟して来んね。まな板の爺だから、全てお任せだいね。」
先生から治療の説明を受けて、麻酔注射を4か所受けての口開け治療台で在る。いやはや、私も緊張疲れのヘトヘト為れど、さぞかし先生も疲れた筈で在る。今度は18日の歯入れとの由。右半分の口中のボワンとした感覚に、やれやれの帰りで在る。
個人スーパーに寄って、総菜類と好物の塩サバ、明太子を買って帰る。
筋肉痛の軟膏と旅行記を出すと、軟膏だけ持って、汚れるから旅行記は持って来て呉れとの事で在った。沢庵と新生姜の炒め煮と個人スーパーに山ウドが在ったら、酢味噌和えにして持って行って遣ろうと考えて、寄ったのだが無かった。
旅行記に一枚絵を描こうと思ったのだが、皆スマホ撮りを盛んにして居たので、私の下手絵より、世界有数の鮮やかな海ショットに勝るもの無しで、その中からチョイスして、旅行記に挟み込むのも各自の手作り感で様(さま)に為ると、考え直した次第でも在る。
時間が在るから早目に行って、写真入り旅行記のサンプル作りも旅行会の仲間への貢献の一つでも在ろう。アハハ。
中禅寺湖の親方(Sマリーンの共同経営者)も日本史が趣味で、中々のインテリ女性で、ヘロヘロ爺の私の体調を気遣って呉れて居るとの由。仕事が一段落したら、骨休めに信州に来るとの由。白骨温泉泊とするから、兄弟は相部屋とするから、思う存分、歴史話を交換し合えば好いと伝えて居るとの由。
いやはや、古希坂兄弟では在るが、未だ未だ世間体には魅力の在る兄弟らしい。
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