長駄文館・・・吾は、自然に任せる為り。
- 2022/05/12
- 13:56
吾は、自然に任す日々為り。(5/12/22)
参った、参った。恐怖夢で全身汗まみれの態で目が覚めた。高所恐怖症が絶対に見ては為らない夢内容で在った。何も悪い事をして居ないのだが、世の中とは『不公平な物』では無いか。いやはや、完全なる夢疲れでの起床で在る。悪夢一掃の為に全戸開放して、先ずは草臥れ果てた身体に、濃いめのモーニングコーヒーとする。
朝アイドリングに庭周りをして、へたって仕舞ったキュウリ苗を買って来なければ為るまい。如何云う訳か、継ぎ木苗物よりも安物苗の方が土に合う傾向が強いから、遠いが『費用対効果』を考えると、ホームセンターの安苗を買って来ると致そう。
加えて、インゲン類の芽出しが、もう無さそうで在るから、再度の種蒔きをするしか無さそうで在る。何事も運動の一環で在るから、まぁ、遣る事が出来て好しとすべきで在る。
牡丹が終われば、庭は芍薬の花盛りと成ろう。先頭株の蕾は、数日の内に開花する事だろう。シュンギクの初カットも、その頃に成ろうか。種を蒔いて、ジョロ散水をして、新鮮な緑を食卓に添えるのは、愉しみの歳時季の一つで在る。
庭観察をして居ると、今年は毛虫が殊の外多い。ツバクロヒョウモンの幼虫らしい。普通、蝶の食草は限られて居て、その限定故の食い分けの『棲み分け』をする事で、自然界のバランスが保たれて居る構造と成って居るとの由。
それがツバクロヒョウモンは、葉なら何でも構わずの『悪食種』らしく、至る所に蠢いて居る始末で在る。人間界に例えれば、チャイニーズ種の様な物で在る。『憎まれっ子、世に憚る』が世の倣いにして、それが一線を越えれば、『過ぎたるは、及ばざりし為り』の自然淘汰作用が働いて、自然の摂理で衰退に向かうと云うのも、これまた自然界摂理の内で在る。
人畜無害の一観察者の立場に立てば、人為の殺虫剤殺法をせずに、自然観察をするには『不作為の態度』を好しとすべきで在る。極力、不作為観察を旨として居るのだが、庭の巣箱にシジューカラが未だに営巣して呉れないのは、未だ未だ私の修行が足らず、不徳とする次第なので在る。生きて居る間に、『修行の成果』を見たいと念じて居るのだが・・・。
背後からは、通勤帯の車音の通過が始まって居る。煙草も終わってしまったから、四畳半に煙草を持ちに行って、お茶入れをして来ると致そうか。目下、演歌の女泣き節を聴いて居るので、それが終わるまで待つと致そう。時報は8時で在るか・・・。
ホームセンターが、開くのが9時半。如何するか。散歩の前倒しで帰って来てからの飯とすれば、時間が繋がる次第で在る。通勤帯、通学帯の中を前倒し散歩とする。矢張り、家の中に居るよりも、歩くと気持ちが好い物で在る。昨日のお隣さんとの話では無いが、75を過ぎると、何かと遣る気が失せて来る物の様で在る。
私も来年がその年齢と成るのだが、そうは為りたくないから、現在の日常ペースを維持する事で、歳の巡りを回避して行きたいと考えて居る次第で在る。
倅の言葉では無いが、『水は低きに流れる』の安易便利の車、機械に頼らず、有り余る時間の有効利用で『不便益の自活生活』を、丈夫で長持ちの基本として行きたい物で在る。
さてさて、頃合いの時間と成って来た。歯磨き・洗顔で、今度は自転車でホームセンターへキュウリ苗を買って来ると致しまする。へへへ。
兄貴の私が『低きに、ただ流れる水』と為って仕舞うと、弟にA君並のお説教を頂戴して仕舞う羽目に陥って仕舞う。とほほ。
ホームセンターで買い物を済ませて、自転車に乗るとパンクで在る。いやはや、自転車を押しての上り勾配の帰路と相成った。買って来た苗を植えて、やれやれのパンク修理の段で在る。修理を終えて、一乗りして来て、道具を片付ければ、1時半では無いか。
遺憾いかん、古希坂爺の一日分以上のエネルギーを使い果たして仕舞った。
参った、参った。恐怖夢で全身汗まみれの態で目が覚めた。高所恐怖症が絶対に見ては為らない夢内容で在った。何も悪い事をして居ないのだが、世の中とは『不公平な物』では無いか。いやはや、完全なる夢疲れでの起床で在る。悪夢一掃の為に全戸開放して、先ずは草臥れ果てた身体に、濃いめのモーニングコーヒーとする。
朝アイドリングに庭周りをして、へたって仕舞ったキュウリ苗を買って来なければ為るまい。如何云う訳か、継ぎ木苗物よりも安物苗の方が土に合う傾向が強いから、遠いが『費用対効果』を考えると、ホームセンターの安苗を買って来ると致そう。
加えて、インゲン類の芽出しが、もう無さそうで在るから、再度の種蒔きをするしか無さそうで在る。何事も運動の一環で在るから、まぁ、遣る事が出来て好しとすべきで在る。
牡丹が終われば、庭は芍薬の花盛りと成ろう。先頭株の蕾は、数日の内に開花する事だろう。シュンギクの初カットも、その頃に成ろうか。種を蒔いて、ジョロ散水をして、新鮮な緑を食卓に添えるのは、愉しみの歳時季の一つで在る。
庭観察をして居ると、今年は毛虫が殊の外多い。ツバクロヒョウモンの幼虫らしい。普通、蝶の食草は限られて居て、その限定故の食い分けの『棲み分け』をする事で、自然界のバランスが保たれて居る構造と成って居るとの由。
それがツバクロヒョウモンは、葉なら何でも構わずの『悪食種』らしく、至る所に蠢いて居る始末で在る。人間界に例えれば、チャイニーズ種の様な物で在る。『憎まれっ子、世に憚る』が世の倣いにして、それが一線を越えれば、『過ぎたるは、及ばざりし為り』の自然淘汰作用が働いて、自然の摂理で衰退に向かうと云うのも、これまた自然界摂理の内で在る。
人畜無害の一観察者の立場に立てば、人為の殺虫剤殺法をせずに、自然観察をするには『不作為の態度』を好しとすべきで在る。極力、不作為観察を旨として居るのだが、庭の巣箱にシジューカラが未だに営巣して呉れないのは、未だ未だ私の修行が足らず、不徳とする次第なので在る。生きて居る間に、『修行の成果』を見たいと念じて居るのだが・・・。
背後からは、通勤帯の車音の通過が始まって居る。煙草も終わってしまったから、四畳半に煙草を持ちに行って、お茶入れをして来ると致そうか。目下、演歌の女泣き節を聴いて居るので、それが終わるまで待つと致そう。時報は8時で在るか・・・。
ホームセンターが、開くのが9時半。如何するか。散歩の前倒しで帰って来てからの飯とすれば、時間が繋がる次第で在る。通勤帯、通学帯の中を前倒し散歩とする。矢張り、家の中に居るよりも、歩くと気持ちが好い物で在る。昨日のお隣さんとの話では無いが、75を過ぎると、何かと遣る気が失せて来る物の様で在る。
私も来年がその年齢と成るのだが、そうは為りたくないから、現在の日常ペースを維持する事で、歳の巡りを回避して行きたいと考えて居る次第で在る。
倅の言葉では無いが、『水は低きに流れる』の安易便利の車、機械に頼らず、有り余る時間の有効利用で『不便益の自活生活』を、丈夫で長持ちの基本として行きたい物で在る。
さてさて、頃合いの時間と成って来た。歯磨き・洗顔で、今度は自転車でホームセンターへキュウリ苗を買って来ると致しまする。へへへ。
兄貴の私が『低きに、ただ流れる水』と為って仕舞うと、弟にA君並のお説教を頂戴して仕舞う羽目に陥って仕舞う。とほほ。
ホームセンターで買い物を済ませて、自転車に乗るとパンクで在る。いやはや、自転車を押しての上り勾配の帰路と相成った。買って来た苗を植えて、やれやれのパンク修理の段で在る。修理を終えて、一乗りして来て、道具を片付ければ、1時半では無いか。
遺憾いかん、古希坂爺の一日分以上のエネルギーを使い果たして仕舞った。
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