長駄文館・・・ちょいと、献画に就いて為り。
- 2022/07/21
- 13:09
ちょいと。Sさんの献画に就いて為り。(7/21/22)
昨日はSが安否確認と月曜のボランティア草刈の件で来て、佐渡行の話とかして土産を持ってニコニコ顔の顔出しで在った。昨日はそんな次第で昼寝も出来ずに活字読みをして眼精疲労の為に早目の寝で在った。
珍しく遅い時間で弟から電話が在って、宇都宮の親方にSさんの絵が出来たの連絡を入れた処、貰いに土曜日に来るとの事。一段落したら骨休みに白骨温泉でリラックスしたいとかねがね言って居た彼女で在る。
そんな次第で私も同行して、描いた本人から絵の解説、相談に乗って遣れとの由。
私の極彩色戯画廊鑑賞をして、私の梅干しを土産物に持たせたいとの由。了解と応える。
丁度昨日のブログの中に、絵の発想経緯と現代の亡八者群像から離れた海、船仲間の男道の八に就いて触れて置いたから、佐渡行の散骨シーンも在る佐渡行の文章も、Sさんの思い出としてプレゼントすれば好い。
親方が来て呉れると云うので在るから、儒教的八道だけではバランスが悪い。仏教の八正道に就いても触れて置かないと、日本人の神道の道に背くと云う物で在る。
仏教の示す人間としての八正道を検索して、以下に示す次第で在る。
一、正見。正しい物の見方を持つ。
二、正思惟(しょうしい)。正しい考え方を持つ事。
三、正語。正しい言葉遣いをする事。
四、正業。正しい行いをする事。
五、正命。正しい生活を送る事。
六、正精進。正しい道に向かって、正しい努力をする事。
七、正念。正しい意思、信念を持つ事。
八、正定。正見・正念を胸に正しい座禅を行う事。
※正⇒ショウと読むそうな。偏らない事を仏教用語では『中道』と表現し、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を悟りの境地の一生として居るそうな。
私は不信心の性質で在るから、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と云った絶対無二の一神教の宗教には、馴染めない体質で在る。
儒教、仏教の訓えの方が、五感に合う。儒教は華北の孔子の訓えで在るから、殷・周代からの宗法の上下観、血縁的封建制の中央集権的な臭いが強く、華南の『無為自然』の老荘思想の方が、どちらかと云えば性に合う。
インドでは、それが祭式主義に陥ったバラモン教批判から興った『内面重視』のウパニシャド哲学の六二見の一つ仏教の方が、日本神道に共通する自然と人間関係の『道理』に溢れて居るので、『親和性』を感じて居る次第で在る。
『八正道』は出家し無くても、お釈迦さんが到達した諸行無常・諸法無我・涅槃寂静への人生が送れるとの訓えで、その後の大乗仏教への入り口を開いて下さった『一般庶民への訓え』だったと思われる。
詰まりは、人間への『八っつの真っ当指針』で在る。従って、本を読まなくても、お寺さんに行かなくても、訓える内容は『自然の道理』で在る。人間真面目に人生を勤め上げれば、好いと云う事で在ろう。へへへ。
何でもそうで在るが、組織、支配が確立して来ると、『特権階級』の防備上、小学生でもわかる『当たり前の事』を、ゴテゴテと飾り立て、難解な語句に因って、聖界などと云う『虚城』を構築して、平然として居る。
宗教と云う本来像は、個々の心の安息場を提供するのが、本来の姿で在ろう。然しながら、『俗界の利権構造』として君臨して仕舞うのが、哀しいかな『人界の歴史』で在る。
その証拠に、キリスト教典はラテン語表記で、一生懸命ラテン語を習得しなければ理解出来無い『出世の道』に成り下がる。中世カソリックが大繁栄期を迎えた余力で、十字軍遠征をした物の見事に敗退して、ローマカソリック聖界権威の失墜を招くと、抑えられて居た『聖界批判』が噴出して行く。先ず、聖書の母国語訳で英、ポーランドのフス戦争、独のルターの宗教改革運動へと発展して行く、正しい聖書の解釈で抗議するプロテスタントとカソリックの宗教戦争と為って行く。
唐の玄宗皇帝は、武韋の禍の女難から生まれ、前半の治世は名君と称されたが、後半は楊貴妃に溺れ、女難に没した皇帝で在る。宗教も人界から生まれ、人界に没するのが、人界の定めなのだろう。無為自然と対極に在る人為が過ぎると、過ぎたるは及ばざりしで、自然のメカニズムが作動して、振り子は中道を目指す動きに為ると云うのが、歴史の相場らしい。
長々と稚拙な私感とした次第では在るが、Sさんへの一枚の献画に儒教的八道を入れた次第では在るが、日本人の庶民的生活信条としては、お釈迦さんの『八正道』の方が、合致する。一語表記には孔子語、内容説明にはお釈迦さんの八正道が好くマッチする。
本日はこんなブログ内遥と為って仕舞ったが、ポンツウ号茶室で、一懇進ぜようと飄々と待つSさんは、私の献画を褒めて下さるか。へへへ。
昨日はSが安否確認と月曜のボランティア草刈の件で来て、佐渡行の話とかして土産を持ってニコニコ顔の顔出しで在った。昨日はそんな次第で昼寝も出来ずに活字読みをして眼精疲労の為に早目の寝で在った。
珍しく遅い時間で弟から電話が在って、宇都宮の親方にSさんの絵が出来たの連絡を入れた処、貰いに土曜日に来るとの事。一段落したら骨休みに白骨温泉でリラックスしたいとかねがね言って居た彼女で在る。
そんな次第で私も同行して、描いた本人から絵の解説、相談に乗って遣れとの由。
私の極彩色戯画廊鑑賞をして、私の梅干しを土産物に持たせたいとの由。了解と応える。
丁度昨日のブログの中に、絵の発想経緯と現代の亡八者群像から離れた海、船仲間の男道の八に就いて触れて置いたから、佐渡行の散骨シーンも在る佐渡行の文章も、Sさんの思い出としてプレゼントすれば好い。
親方が来て呉れると云うので在るから、儒教的八道だけではバランスが悪い。仏教の八正道に就いても触れて置かないと、日本人の神道の道に背くと云う物で在る。
仏教の示す人間としての八正道を検索して、以下に示す次第で在る。
一、正見。正しい物の見方を持つ。
二、正思惟(しょうしい)。正しい考え方を持つ事。
三、正語。正しい言葉遣いをする事。
四、正業。正しい行いをする事。
五、正命。正しい生活を送る事。
六、正精進。正しい道に向かって、正しい努力をする事。
七、正念。正しい意思、信念を持つ事。
八、正定。正見・正念を胸に正しい座禅を行う事。
※正⇒ショウと読むそうな。偏らない事を仏教用語では『中道』と表現し、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を悟りの境地の一生として居るそうな。
私は不信心の性質で在るから、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と云った絶対無二の一神教の宗教には、馴染めない体質で在る。
儒教、仏教の訓えの方が、五感に合う。儒教は華北の孔子の訓えで在るから、殷・周代からの宗法の上下観、血縁的封建制の中央集権的な臭いが強く、華南の『無為自然』の老荘思想の方が、どちらかと云えば性に合う。
インドでは、それが祭式主義に陥ったバラモン教批判から興った『内面重視』のウパニシャド哲学の六二見の一つ仏教の方が、日本神道に共通する自然と人間関係の『道理』に溢れて居るので、『親和性』を感じて居る次第で在る。
『八正道』は出家し無くても、お釈迦さんが到達した諸行無常・諸法無我・涅槃寂静への人生が送れるとの訓えで、その後の大乗仏教への入り口を開いて下さった『一般庶民への訓え』だったと思われる。
詰まりは、人間への『八っつの真っ当指針』で在る。従って、本を読まなくても、お寺さんに行かなくても、訓える内容は『自然の道理』で在る。人間真面目に人生を勤め上げれば、好いと云う事で在ろう。へへへ。
何でもそうで在るが、組織、支配が確立して来ると、『特権階級』の防備上、小学生でもわかる『当たり前の事』を、ゴテゴテと飾り立て、難解な語句に因って、聖界などと云う『虚城』を構築して、平然として居る。
宗教と云う本来像は、個々の心の安息場を提供するのが、本来の姿で在ろう。然しながら、『俗界の利権構造』として君臨して仕舞うのが、哀しいかな『人界の歴史』で在る。
その証拠に、キリスト教典はラテン語表記で、一生懸命ラテン語を習得しなければ理解出来無い『出世の道』に成り下がる。中世カソリックが大繁栄期を迎えた余力で、十字軍遠征をした物の見事に敗退して、ローマカソリック聖界権威の失墜を招くと、抑えられて居た『聖界批判』が噴出して行く。先ず、聖書の母国語訳で英、ポーランドのフス戦争、独のルターの宗教改革運動へと発展して行く、正しい聖書の解釈で抗議するプロテスタントとカソリックの宗教戦争と為って行く。
唐の玄宗皇帝は、武韋の禍の女難から生まれ、前半の治世は名君と称されたが、後半は楊貴妃に溺れ、女難に没した皇帝で在る。宗教も人界から生まれ、人界に没するのが、人界の定めなのだろう。無為自然と対極に在る人為が過ぎると、過ぎたるは及ばざりしで、自然のメカニズムが作動して、振り子は中道を目指す動きに為ると云うのが、歴史の相場らしい。
長々と稚拙な私感とした次第では在るが、Sさんへの一枚の献画に儒教的八道を入れた次第では在るが、日本人の庶民的生活信条としては、お釈迦さんの『八正道』の方が、合致する。一語表記には孔子語、内容説明にはお釈迦さんの八正道が好くマッチする。
本日はこんなブログ内遥と為って仕舞ったが、ポンツウ号茶室で、一懇進ぜようと飄々と待つSさんは、私の献画を褒めて下さるか。へへへ。
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