長駄文館・・・さてさて、如何するか為り。
- 2022/09/01
- 12:02
さてさて、如何するか為り。(9/1/22)
風が吹けば涼しく、止めば蒸し暑さの9月初日で在る。カレンダーを改めて、9月、10月のSさんの洋上散骨、中禅寺湖の湖上紅葉遊覧会の書き込みをして置く。
お互いに歳で在るから、場所を得ての纏まった時間の中で感性、意見交換の兄弟話、行動が取れると云うのは、有難い事で在る。一卵性兄弟の様な者同士で在るから、話題には不自由しないし、生来の好奇心、探究心も持ち合わせて居るから、行動・生活指針の刺激にも為って居る。
兄弟ながら、学校嫌いな私に世話を焼いて、幼稚園児の弟が学校に連れて行って呉れた幼少期で在る。大学の休み時には駆り出されて、トラックの助手にさせられて荷役を遣らされたり、勤めると休みの日には駆り出されて、配管工のオテコを遣らされた物で在る。毎日が日曜日の現在でも、手が足りないと強制連行と為って居る。
若しかしたら、母ちゃんこの言葉では無いが、弟は兄ちゃん子なのかも知れぬ。アハハ。
まぁ、ブログ打ちが日課の中心として、創作日記として呆け防止として居る毎日で在る。従って、弟の口実としては『マンネリ打破の取材連行』との由で在る。中学時は私の校内記録を3歳下の弟が塗り替えて来た事も在って、扱きを黙って耐え、勉強時間の無い運動扱きと遊びで、授業中は集中して覚えの時間として居た体質で在るから、二人とも段取りは母親譲りで、作業は黙々とこなす優等生タイプで在る。
そんな処がツーカーの、相互の信頼性を作って居るのだろう。
佐渡行に同行した亡三兄の親友さんH先輩が、私達を見て、お互いに立場を守って、好い距離間を持って補完し合って居る。社長が兄貴を信頼し切って尊敬して居るのが、好く解った。話の内容は、俺には難し過ぎるが、頭の好い、お互い無くては為らない兄弟だ。一卵性兄弟とは上手く言ったもんだと驚いて居た次第で在る。
心友Tが逝った後、弟が珍しく玄関から、Tの声色と表情で、『R、元気か。T先輩の替わりに俺がRの心友に為るぞ。』と大きな声と弟の茶目っ気顔で、私を喜ばせて呉れた次第で在る。
いやはや、60数年振りのおっとり小学生と、元気溌剌の幼稚園児の再演で在った。
生まれた川を下って、大海原の回遊を果たして、生まれ故郷の川に帰って来て一生を閉じる鮭鱒、生まれ育った山椒の木、庭での交尾を終えて、故郷の山椒の木に散乱して一生を閉じる並アゲハ、黒アゲハの生物としての一生とオーバーラップする『余生の進み』を感じて居る。
人間とは未熟の塊で在るから、還暦、古希に達する、或る程度、長生きをして見ないと、観えて来ない物、感じられて来ない物が多で在る。そんな古希坂の年齢域とする処で在る。
人間、歳を取ったとしても、語る中身が薄いと、どんなに多弁で在ろうとも、単語の羅列で、伝わる物が薄く感じられる物で在る。
文字は言葉に劣り、言葉は行為・行動に劣る。心・態・技一如にして、百聞は一見に如かず。一書、悉く信ずるは、書無きが如し。解る人間には黙って居ても通じるが、解らない人間には、所詮、通じない物で在る。感情的批判には、其れなりの理路整然と反論出来る程度の理性力と自分軸を保持しながら、和して同ぜず、和して動ぜずの人間関係の距離を保ちつつ、人畜無害の日々を送って逝きたいと念じて居る次第で在るが、未熟の身にて、困った気分に為る事も在る。
お互い明るい愚痴放談は、百薬の長で在る。気兼ね無くストレス解消の硬軟共々の言いたい放題の悪口叩きが、ツーカーで通じ合えるのは、嬉しい物で在る。
さてさて、飯のお時間と成って来た。おやおや、雨が降って来たでは無いか。全戸開放を閉めて来る。飯後は風呂でリラックスすると致そう。
食後の風呂入りをして居ると、雨音は収まったが、ゴロゴロと雷鳴の轟きで在る。風呂入りで心身ともにさっぱりすると、偶にはコスコで駄菓子類の買い出しをして来たい気も為るが、雨が気が掛かりで在る。一回の食が細く為った分、ちょっとした駄菓子類が手元に無いと口寂しい次第と為って来た。
さてさて、如何するかで在る。
おやおや、また降って来た。見切りスタートの愚を犯さずに、儲け物で在ったか。その内に、土砂降りの雨に成って来た。
風が吹けば涼しく、止めば蒸し暑さの9月初日で在る。カレンダーを改めて、9月、10月のSさんの洋上散骨、中禅寺湖の湖上紅葉遊覧会の書き込みをして置く。
お互いに歳で在るから、場所を得ての纏まった時間の中で感性、意見交換の兄弟話、行動が取れると云うのは、有難い事で在る。一卵性兄弟の様な者同士で在るから、話題には不自由しないし、生来の好奇心、探究心も持ち合わせて居るから、行動・生活指針の刺激にも為って居る。
兄弟ながら、学校嫌いな私に世話を焼いて、幼稚園児の弟が学校に連れて行って呉れた幼少期で在る。大学の休み時には駆り出されて、トラックの助手にさせられて荷役を遣らされたり、勤めると休みの日には駆り出されて、配管工のオテコを遣らされた物で在る。毎日が日曜日の現在でも、手が足りないと強制連行と為って居る。
若しかしたら、母ちゃんこの言葉では無いが、弟は兄ちゃん子なのかも知れぬ。アハハ。
まぁ、ブログ打ちが日課の中心として、創作日記として呆け防止として居る毎日で在る。従って、弟の口実としては『マンネリ打破の取材連行』との由で在る。中学時は私の校内記録を3歳下の弟が塗り替えて来た事も在って、扱きを黙って耐え、勉強時間の無い運動扱きと遊びで、授業中は集中して覚えの時間として居た体質で在るから、二人とも段取りは母親譲りで、作業は黙々とこなす優等生タイプで在る。
そんな処がツーカーの、相互の信頼性を作って居るのだろう。
佐渡行に同行した亡三兄の親友さんH先輩が、私達を見て、お互いに立場を守って、好い距離間を持って補完し合って居る。社長が兄貴を信頼し切って尊敬して居るのが、好く解った。話の内容は、俺には難し過ぎるが、頭の好い、お互い無くては為らない兄弟だ。一卵性兄弟とは上手く言ったもんだと驚いて居た次第で在る。
心友Tが逝った後、弟が珍しく玄関から、Tの声色と表情で、『R、元気か。T先輩の替わりに俺がRの心友に為るぞ。』と大きな声と弟の茶目っ気顔で、私を喜ばせて呉れた次第で在る。
いやはや、60数年振りのおっとり小学生と、元気溌剌の幼稚園児の再演で在った。
生まれた川を下って、大海原の回遊を果たして、生まれ故郷の川に帰って来て一生を閉じる鮭鱒、生まれ育った山椒の木、庭での交尾を終えて、故郷の山椒の木に散乱して一生を閉じる並アゲハ、黒アゲハの生物としての一生とオーバーラップする『余生の進み』を感じて居る。
人間とは未熟の塊で在るから、還暦、古希に達する、或る程度、長生きをして見ないと、観えて来ない物、感じられて来ない物が多で在る。そんな古希坂の年齢域とする処で在る。
人間、歳を取ったとしても、語る中身が薄いと、どんなに多弁で在ろうとも、単語の羅列で、伝わる物が薄く感じられる物で在る。
文字は言葉に劣り、言葉は行為・行動に劣る。心・態・技一如にして、百聞は一見に如かず。一書、悉く信ずるは、書無きが如し。解る人間には黙って居ても通じるが、解らない人間には、所詮、通じない物で在る。感情的批判には、其れなりの理路整然と反論出来る程度の理性力と自分軸を保持しながら、和して同ぜず、和して動ぜずの人間関係の距離を保ちつつ、人畜無害の日々を送って逝きたいと念じて居る次第で在るが、未熟の身にて、困った気分に為る事も在る。
お互い明るい愚痴放談は、百薬の長で在る。気兼ね無くストレス解消の硬軟共々の言いたい放題の悪口叩きが、ツーカーで通じ合えるのは、嬉しい物で在る。
さてさて、飯のお時間と成って来た。おやおや、雨が降って来たでは無いか。全戸開放を閉めて来る。飯後は風呂でリラックスすると致そう。
食後の風呂入りをして居ると、雨音は収まったが、ゴロゴロと雷鳴の轟きで在る。風呂入りで心身ともにさっぱりすると、偶にはコスコで駄菓子類の買い出しをして来たい気も為るが、雨が気が掛かりで在る。一回の食が細く為った分、ちょっとした駄菓子類が手元に無いと口寂しい次第と為って来た。
さてさて、如何するかで在る。
おやおや、また降って来た。見切りスタートの愚を犯さずに、儲け物で在ったか。その内に、土砂降りの雨に成って来た。
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