長駄文館・・・暑さ続く9月も、早や半ばの声為り。
- 2022/09/14
- 12:43
暑さ続く9月も、早や半ば声為り。(9/14/22)
さてさて、朝で在るか。生きて居る以上、起きねば為るまい。自転車出しをして空気の総入れ替えで、全戸開放とする。
冷蔵庫を開けて、味噌漬けタッパを見る。適当な容器が無かったので余力が在るから、もう2パック漬け込んで置くと致そうか。多い分には、貰い手が在る。何かにカコ付け無いと、物臭で在るから家に腰を据えて仕舞う。何事も運動の一環で在る。
ゴミ出しは必要ないが、昨日のボランティアの結果見で、河川敷を眺める。一日置いて金曜日には、河川敷に芝刈り機が入るから、好い形に為る次第で在る。今では吾が町会は、近隣町会の河川敷奉仕の起爆剤、手本と為って居るそうな。
コーヒーと煙草のモーニングタイムを定位置の小部屋でして居ると、お天道の登場で、今日も暑く成る次第で、『秋よ、何処為りや』のメゲ気分で在る。
昨日は8時から正午まで河川敷作業して居たのだが、同年配の元役員さんの散歩姿も見えず、ぶり返した暑さに散歩のオロ抜きをして居たのだろうと思って居た次第で在る。
年々、散歩で顔を合せる人達とも出会わず、『寄る歳波』を実感する昨今で在る。
同級会がコロナ禍で3年程休止して居るので、幹事役をして居る一人が、病気で歩け無く成って居るとの由。手が中気の様に震え、体幹も傾き、猫背に成って仕舞った。それでも同級会に出て来て居たのだが、聞けば車椅子に進んで居るとの由。
時々、シルバーセンターの軽食コーナーで、顔を合わせて居た女同級生も腰、膝の手術をして、リハビリを乗り越えて、少しでも積極的生き方をして行きたいと言って居たのだが、この一年以上、顔を合わせる事も無く、時が過ぎて居る次第で在る。
同期生のSもYも元気にして居るので、話をして居ると寄る歳波を感じない次第なのだが、古希坂住人とも為れば、健康面での『個人差』は哀しいかな、乖離して行くばかりで在る。
独り暮らしでマイペース、マイリズム、マイタイムの取り訳、健康に心掛けて居る訳では無い。そんなゆったりした生活習慣の中に埋没して居る身ながら、体調の不調も感じず、DIYの生活を送れるのは、丈夫な身体に産んで呉れた親のお陰なのだろう。
日中はラジオをBGMに夜は動画観をして過ごして居る日々では在るが、それらに対する感応力は、若い頃の鋭利さは無く為っては来たが、然程、鈍化して居ないので安心して居る次第で在る。
さて、朝飯をして来ると致そう。
変わり映えしない手作り貧民の食卓では在るが、ああ、美味かったの食事で在る。
月並な言では在るが、何でも美味いと食べれるのが、『健康の尺度』と云う物らしい。云われて見ると、自然界は食べる事が『最大の生きる糧にして、中心』で在る。
その生きる糧が、貧富の差で質も量も変わって来るのが人間界なのだろうが、世界の珍味・美食ばかりでは、太陽王・仏のルイ14世の様に、風が吹いても痛いの『痛風の身』と為って仕舞う。
伊達や酔狂に、動物の胴体は多種多様の消化器官の収納体で無いの在る。順序好く効率的な消化過程が施されて居るので在るからして、その工程ごとの役割分担が在る訳で、消化の好い物だけに『偏食』をして仕舞えば、全体の不調和に陥って仕舞うのも道理と云う物で在る。
衰弱した病人で無い限り、医食同源の現代人からすれば、一見不合理と思われる『不便益』にこそ、丈夫で長持ちの生物としての構造仕組み・相互の相乗構造と為って居るのだろう。
『急がば、回れ』とは、言い得て、妙な真理では無いか。
小学校から変でしょうの『変グリッシュ』じゃ、森羅万象教育は廃れるばかりで在る。日本の昔からの言い回し表現の、地に足の着いた児童教育に時間を割いた方が有意義と思われるのだが、カタカナ文字を金科玉条視する『偏差値崇拝の表層過ぎる世』は、所詮マッチ箱の脆弱さの行進の様に思えて為らない次第で在る。
イングリッシュが変グリッシャじぁ、落語長屋の熊さん、八っつあんだって、『秋刀魚は目黒に限る』で、失笑の落ちしか付かぬ次第で在ろう。終いには、このシロアリ野郎共が、そんな暇が有ったら、鬼平に倣って、網笠、着流しで、市井の見回りをして、犯罪防止をして来るのが『役目の筋』だなんて、一喝されるかも知れませんぞえ。
中村吉衛門さんを失って、天下の名作シリーズは、演じる事の出来る俳優さんを待っての眠りに入って居る寂しさで在る。へへへ。
さてさて、朝で在るか。生きて居る以上、起きねば為るまい。自転車出しをして空気の総入れ替えで、全戸開放とする。
冷蔵庫を開けて、味噌漬けタッパを見る。適当な容器が無かったので余力が在るから、もう2パック漬け込んで置くと致そうか。多い分には、貰い手が在る。何かにカコ付け無いと、物臭で在るから家に腰を据えて仕舞う。何事も運動の一環で在る。
ゴミ出しは必要ないが、昨日のボランティアの結果見で、河川敷を眺める。一日置いて金曜日には、河川敷に芝刈り機が入るから、好い形に為る次第で在る。今では吾が町会は、近隣町会の河川敷奉仕の起爆剤、手本と為って居るそうな。
コーヒーと煙草のモーニングタイムを定位置の小部屋でして居ると、お天道の登場で、今日も暑く成る次第で、『秋よ、何処為りや』のメゲ気分で在る。
昨日は8時から正午まで河川敷作業して居たのだが、同年配の元役員さんの散歩姿も見えず、ぶり返した暑さに散歩のオロ抜きをして居たのだろうと思って居た次第で在る。
年々、散歩で顔を合せる人達とも出会わず、『寄る歳波』を実感する昨今で在る。
同級会がコロナ禍で3年程休止して居るので、幹事役をして居る一人が、病気で歩け無く成って居るとの由。手が中気の様に震え、体幹も傾き、猫背に成って仕舞った。それでも同級会に出て来て居たのだが、聞けば車椅子に進んで居るとの由。
時々、シルバーセンターの軽食コーナーで、顔を合わせて居た女同級生も腰、膝の手術をして、リハビリを乗り越えて、少しでも積極的生き方をして行きたいと言って居たのだが、この一年以上、顔を合わせる事も無く、時が過ぎて居る次第で在る。
同期生のSもYも元気にして居るので、話をして居ると寄る歳波を感じない次第なのだが、古希坂住人とも為れば、健康面での『個人差』は哀しいかな、乖離して行くばかりで在る。
独り暮らしでマイペース、マイリズム、マイタイムの取り訳、健康に心掛けて居る訳では無い。そんなゆったりした生活習慣の中に埋没して居る身ながら、体調の不調も感じず、DIYの生活を送れるのは、丈夫な身体に産んで呉れた親のお陰なのだろう。
日中はラジオをBGMに夜は動画観をして過ごして居る日々では在るが、それらに対する感応力は、若い頃の鋭利さは無く為っては来たが、然程、鈍化して居ないので安心して居る次第で在る。
さて、朝飯をして来ると致そう。
変わり映えしない手作り貧民の食卓では在るが、ああ、美味かったの食事で在る。
月並な言では在るが、何でも美味いと食べれるのが、『健康の尺度』と云う物らしい。云われて見ると、自然界は食べる事が『最大の生きる糧にして、中心』で在る。
その生きる糧が、貧富の差で質も量も変わって来るのが人間界なのだろうが、世界の珍味・美食ばかりでは、太陽王・仏のルイ14世の様に、風が吹いても痛いの『痛風の身』と為って仕舞う。
伊達や酔狂に、動物の胴体は多種多様の消化器官の収納体で無いの在る。順序好く効率的な消化過程が施されて居るので在るからして、その工程ごとの役割分担が在る訳で、消化の好い物だけに『偏食』をして仕舞えば、全体の不調和に陥って仕舞うのも道理と云う物で在る。
衰弱した病人で無い限り、医食同源の現代人からすれば、一見不合理と思われる『不便益』にこそ、丈夫で長持ちの生物としての構造仕組み・相互の相乗構造と為って居るのだろう。
『急がば、回れ』とは、言い得て、妙な真理では無いか。
小学校から変でしょうの『変グリッシュ』じゃ、森羅万象教育は廃れるばかりで在る。日本の昔からの言い回し表現の、地に足の着いた児童教育に時間を割いた方が有意義と思われるのだが、カタカナ文字を金科玉条視する『偏差値崇拝の表層過ぎる世』は、所詮マッチ箱の脆弱さの行進の様に思えて為らない次第で在る。
イングリッシュが変グリッシャじぁ、落語長屋の熊さん、八っつあんだって、『秋刀魚は目黒に限る』で、失笑の落ちしか付かぬ次第で在ろう。終いには、このシロアリ野郎共が、そんな暇が有ったら、鬼平に倣って、網笠、着流しで、市井の見回りをして、犯罪防止をして来るのが『役目の筋』だなんて、一喝されるかも知れませんぞえ。
中村吉衛門さんを失って、天下の名作シリーズは、演じる事の出来る俳優さんを待っての眠りに入って居る寂しさで在る。へへへ。
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