長駄文館・・・忘年会、サンキューサンキューの段為り。
- 2022/12/29
- 12:36
忘年会、サンキューサンキューの段為り。(12/29/22)
鄙びた温泉掛しの湯に浸かって、一年の垢を落としての忘年会で在る。 旅館の朝飯を食べて自転車で帰って来て、小部屋定位置で洗濯機を回しながらの、モーニングコーヒー&スモーキングタイムを始めれば、8時半で在る。前方の東フェンスには雌ジョービタキの姿見せで在る。顔馴染みさん達、コンパニオンさん達との恒例の無礼講の楽しくも賑やかな忘年会が終わって、今度は正月4日から8日の男4人旅で在る。
あれだけ食べて飲んで、暖かい部屋で寝たにも拘わらず朝立ちがしないのは、真に遺憾の態で在る。旅館の朝飯は如何云う訳か、美味くてお代わりと為るから不思議な物で在る。弟分のKちゃんは正月明けの両行が在るので、その分の前倒しで朝飯を済ませると作業着に着替えて現場に行くとの由。
自営業さんが多いから、其々の仕事の都合が在って、泊まれずに帰る人も居る。そんな仕事優先のきつい日程の中での忘年会は、好い励みに為って居るとの由で在る。
そんな処が、サラリーマンでは無い仕事仲間の横断的忘年会の絆を作って居るのだろう。コンパニオン共々の、水滸伝風に云えば梁山泊、政党で云えば派閥横断的忘年会と云った結合なのだろう。
Kちゃんは弟分と云う事で、仕事手伝い時の民宿泊まり、忘年会泊まりでは、何時も布団を並べて同部屋が恒例で在る。弟の会社、人脈の中に居ると、私は至って居心地が好い。所謂、類は友を呼ぶの感で在る。兎に角、私と弟は仲の好い兄弟との由で、見て居るだけで好い絵に為るとお世辞を頂戴して居る次第で在る。何時もくっ付いて居る訳でも無く、其々がマイペースで遣って居る処が、好い距離感が保持されて居るのだと云う。そう云われると、好いと思ったら参考にして呉れと応えるしか無い次第で在る。
普段、私は古希坂爺の出不精独り暮らしをして居るから、こんな8人にも及ぶ女性群とは話す機会が無いから、一年分を話して来る次第で在る。不如意棒の効能は期待出来ないオンナからカンナ域の異性群では在るが、男族にとっては女族は百薬の長で在る。
今年最後にして快作の『天下人と持従若侍』のカラフル色鉛筆画を3枚コピーして、この絵に題名を付けて、二人の台詞を入れろと書いて、皆さんに回して反応を待ったり、カンナコンパニオンさん達との話の切っ掛けを作っての遊びは、愉しい限りで在った。
イジンと云うから、自惚れ症の私は偉人と解釈したが、如何やら異人の意味で、落胆した次第で在る。ギャハハ!! お酌をして呉れて、飲んで呉れたり、手相を見て呉れる女カンナ族様達は、男女の堺が霞んで、中性域に為るとザックバランで話が尽きない次第と為って来る。
偶々一神教、仏教、儒教、神道の話に流れて、頭に在る事を縷々説明して居る内に、気付く事が在って、私としては『大儲け』の段で在った。
ゴータマ・シッダールタの80年の足跡を訪ねれば、諸行無常⇒諸法無我⇒涅槃寂静と為る。仏陀の示した『諸行無常・諸法無我』は、宗教革命時のカルヴィンの唱えた『神の予定説』に比定する事が出来るのかも知れぬと不図思った。
仏教は祭司偏重主義の形式に陥ったバラモン教への宗教革命的なウパニシャド哲学の62見から発した悟りの哲学で在る。一神教下では、思考思想は唯一無二の神が示す処として、人知の及ばない神の予定論を説き、一方の内面重視の仏教は煩悩からの脱却の悟りを切り拓く哲学思考としては、人間には先の事は一切不明の諸行無常と一切の物は自分の物とは為らないの諸法無我の境地に立った、人間煩悩を離脱した境地が唯、涅槃寂静と説くのが、仏陀の訓えと云う事に為ろうか。
これは或る意味、八尾萬の神々の自然信仰・自然道から導き出された日本神道の精神グランドに通底するからこその『神仏混淆の日本宗教』として無意識の中に備わって居るのでは無いかのヒントを得た次第で在る。
いやはや、こんな風な気付きはマンネリ日々の趣味のライフワークをのんべんだらりとして居るだけでは頭に浮ばなかった次第で在る。全てが弟の七光に浴して居る次第で、今回も非日常の外界刺激を頂戴した結果と相成った。サンキュー、サンキューの段で在る。
鄙びた温泉掛しの湯に浸かって、一年の垢を落としての忘年会で在る。 旅館の朝飯を食べて自転車で帰って来て、小部屋定位置で洗濯機を回しながらの、モーニングコーヒー&スモーキングタイムを始めれば、8時半で在る。前方の東フェンスには雌ジョービタキの姿見せで在る。顔馴染みさん達、コンパニオンさん達との恒例の無礼講の楽しくも賑やかな忘年会が終わって、今度は正月4日から8日の男4人旅で在る。
あれだけ食べて飲んで、暖かい部屋で寝たにも拘わらず朝立ちがしないのは、真に遺憾の態で在る。旅館の朝飯は如何云う訳か、美味くてお代わりと為るから不思議な物で在る。弟分のKちゃんは正月明けの両行が在るので、その分の前倒しで朝飯を済ませると作業着に着替えて現場に行くとの由。
自営業さんが多いから、其々の仕事の都合が在って、泊まれずに帰る人も居る。そんな仕事優先のきつい日程の中での忘年会は、好い励みに為って居るとの由で在る。
そんな処が、サラリーマンでは無い仕事仲間の横断的忘年会の絆を作って居るのだろう。コンパニオン共々の、水滸伝風に云えば梁山泊、政党で云えば派閥横断的忘年会と云った結合なのだろう。
Kちゃんは弟分と云う事で、仕事手伝い時の民宿泊まり、忘年会泊まりでは、何時も布団を並べて同部屋が恒例で在る。弟の会社、人脈の中に居ると、私は至って居心地が好い。所謂、類は友を呼ぶの感で在る。兎に角、私と弟は仲の好い兄弟との由で、見て居るだけで好い絵に為るとお世辞を頂戴して居る次第で在る。何時もくっ付いて居る訳でも無く、其々がマイペースで遣って居る処が、好い距離感が保持されて居るのだと云う。そう云われると、好いと思ったら参考にして呉れと応えるしか無い次第で在る。
普段、私は古希坂爺の出不精独り暮らしをして居るから、こんな8人にも及ぶ女性群とは話す機会が無いから、一年分を話して来る次第で在る。不如意棒の効能は期待出来ないオンナからカンナ域の異性群では在るが、男族にとっては女族は百薬の長で在る。
今年最後にして快作の『天下人と持従若侍』のカラフル色鉛筆画を3枚コピーして、この絵に題名を付けて、二人の台詞を入れろと書いて、皆さんに回して反応を待ったり、カンナコンパニオンさん達との話の切っ掛けを作っての遊びは、愉しい限りで在った。
イジンと云うから、自惚れ症の私は偉人と解釈したが、如何やら異人の意味で、落胆した次第で在る。ギャハハ!! お酌をして呉れて、飲んで呉れたり、手相を見て呉れる女カンナ族様達は、男女の堺が霞んで、中性域に為るとザックバランで話が尽きない次第と為って来る。
偶々一神教、仏教、儒教、神道の話に流れて、頭に在る事を縷々説明して居る内に、気付く事が在って、私としては『大儲け』の段で在った。
ゴータマ・シッダールタの80年の足跡を訪ねれば、諸行無常⇒諸法無我⇒涅槃寂静と為る。仏陀の示した『諸行無常・諸法無我』は、宗教革命時のカルヴィンの唱えた『神の予定説』に比定する事が出来るのかも知れぬと不図思った。
仏教は祭司偏重主義の形式に陥ったバラモン教への宗教革命的なウパニシャド哲学の62見から発した悟りの哲学で在る。一神教下では、思考思想は唯一無二の神が示す処として、人知の及ばない神の予定論を説き、一方の内面重視の仏教は煩悩からの脱却の悟りを切り拓く哲学思考としては、人間には先の事は一切不明の諸行無常と一切の物は自分の物とは為らないの諸法無我の境地に立った、人間煩悩を離脱した境地が唯、涅槃寂静と説くのが、仏陀の訓えと云う事に為ろうか。
これは或る意味、八尾萬の神々の自然信仰・自然道から導き出された日本神道の精神グランドに通底するからこその『神仏混淆の日本宗教』として無意識の中に備わって居るのでは無いかのヒントを得た次第で在る。
いやはや、こんな風な気付きはマンネリ日々の趣味のライフワークをのんべんだらりとして居るだけでは頭に浮ばなかった次第で在る。全てが弟の七光に浴して居る次第で、今回も非日常の外界刺激を頂戴した結果と相成った。サンキュー、サンキューの段で在る。
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