長駄文館・・・清々しさに、一歩きして来る為り。
- 2023/05/12
- 13:41
清々しさに、一歩きして来た為り。(5/12/23)
今日も清々しい朝で在る。廊下コーヒーで庭降りをすれば、東フェンスの畝にモグラの跡で在る。受験時では『土竜』と書いてモグラと読むで、一点を稼ぐのに四苦八苦して居た物で在る。団塊世代の受験地獄も振り返れば、記憶力を残して居るの様で在る。
モグラは地中のミミズなどの地中生物を餌として居る。そのミミズは土中の落ち葉層を食べて、ミミズの消化によって、分解されミミズの腸内酵素で各種の土壌菌に因って、益々の分解が進む。風が吹けば、桶屋が儲かるの自然界サイクルで、モグラが地中を動き回れば、地中の空気が通り、好気性微生物群が活性化して来る。
土中の慈養化には地中での生物相の頂点に立つのが『土竜』と云う事に為ろうから、決して名前負けをして居ない働きで在るから、庭をシェアする私としては、文句は言うべきでは無かろう。いやはや、困った物では在るが、地中帝国に在っては居無ければ為らない仕組みと云う事なので在る。コンニャローメ。
庭降りの目下の愉しみは、とうとうその時を迎えた自生ブドウの房付きの数と成長を確かめる事で在る。10程が確認されて来た。根無し芍薬の方も、小さいながら2芽が茎葉を伸ばして居る。日光に難は在る物の、最後に芽出しをしたジャンボ・カサブランカは、鬼ユリを従えて、君臨する伸びを見せて居るし、テッポーユリも一つのユリ群を作る様に成長目覚ましい物が在る。土手花壇に移植した物、買って来たカワラナデシコもすっかり根付いて、移植物からはピンク、白の花が咲き始めて居る。私は衰えが進む次第では在るが、植物達は手を掛ければ、素直に応えて呉れるから気分の保養と為る。
常緑照葉樹と云う言葉が在るが、柿の若葉に当たる陽光は、落葉ながら瑞々しい程の照葉の躍動感を魅せて呉れる。若葉、青葉、紅葉・黄葉、落葉と四季の国の区切り、移ろいの様は、歳を取れば取る程に自然の道に適った日本の協調性と際立ちを教えて呉れる次第で在る。
腹の空く朝飯までには時間が在るから、清々しい朝の空気に一歩きをして来る事を思い立つ。土手道には自転車通学の往来にして、高齢者の散歩姿が在る。大分伸びて来た河川敷の雑草を見ながら、水量の収まったやや笹濁りの流れに魚影は如何にの目を凝らすが、魚影は一切無しの流れ行きで在る。ムクドリが口に虫を咥えて飛んで行く。ツバメが低く高く飛翔して、セキレイ類も姿が無い。流れから上がって抱卵、子育て時を迎えて居るのだろう。
Uターンをして戻って来ると、前方に大きな雑種犬に曳かれて、常連さんの姿が在る。長兄の中学時の同級生さんと云う。小柄ながらも、背筋の通った元気な人で在る。形のデカイ雑種犬は私との相性が悪いらしく、私を見ると狂った様にガナリ立てる駄犬中の駄犬で在る。その癖、私に興味津々らしく尾を振り放しで在るから、如何やら雄の魅力度を競って居る風なので在る。
人間の私としては、手前は精々が国内基準のJISじゃろうが、こちとらはJIS女にぁ、一切見向きもされんが、国際規格のISO級で、ロシア女にぁ人気だったんじゃい。次元が違うんじゃい、次元が。
土台、俺様に張り合おうなんて『料簡』が、そもそも駄犬根性なんじゃい。馬鹿垂れが!!
まぁ、人間語と犬語とは理解不能の関係ながら、それはそれとして、大きな括りでは地球生物の共存者で在るからして、其れなりの生物としての以心伝心が伝播するなかでるから、目の表情を読めば、私と駄犬の共通項としては戯けの部分で、意志疎通が出来て居る次第なので在ろう。ギャハハ!!
ちょっとしたご近所さんボランティア要請が在って、車で付添に行って来る。平日午前中のスーパーは、高齢者さん達で客入りが多い。三割方は爺連で在る。高齢者達の買い物光景を見て居ると、殆どさんが『買い物メモ』に従って買い物をして居る。
男族と女族の買い物は、矢張り性別を現わして居る様で在る。何処となく嬉しそうに時間を掛けて買い物をして居る女族と、面白く無さそうにメモを見て事務的に買う男族の対比が、観察者としては為に成った次第でも在った。
女族の幼児遊びは飯事(ママゴト)遊び、男族はチャンバラ、戦争ゴッコを思い出せば、腑に落ちる次第で在る。
『汝ら、野のユリを見よ。ソロモンの栄華の極みだに、その装(よそお)い、このひともとのユリにしかざり』の一節は誰でもが知って居るイエスの言葉とのそうな。無信仰者ながら、その文学的表現の秀逸さは誰にも理解出来る。
それに則って、過去・現在・未来を考えると。
吾、振り返れば、悉(ことごと)く過去。前を向けば、悉く未来。
過去・未来の挟間に在って、現在は止まらざる一瞬の刹那為り。
在るは、確実な過去と未来在るのみ。人は現在の幅を、如何採るか?
流れる一瞬と採るか、分、時間、日、週、月、年と採るか?
唯一絶対など、世に存在する訳で無し。
無から生まれて幼小・少・青・壮・中・老を経て、無に還るのみ。
在るが儘に生きるのが、現在を生きる事なのかも知れぬ。
四季の国、八尾萬の国で生まれ育ち、齢も古希坂とも為れば、気候風土に受け継がれた民族遺伝子と云う物は、遺憾せん、輸入思想には体質的と云うか原初的に馴染まない物が多々在る様で在る。
さてさて、午後の部はギリシャ章を終了させて、ローマ章に漕ぎ付けると致そうか。
今日も清々しい朝で在る。廊下コーヒーで庭降りをすれば、東フェンスの畝にモグラの跡で在る。受験時では『土竜』と書いてモグラと読むで、一点を稼ぐのに四苦八苦して居た物で在る。団塊世代の受験地獄も振り返れば、記憶力を残して居るの様で在る。
モグラは地中のミミズなどの地中生物を餌として居る。そのミミズは土中の落ち葉層を食べて、ミミズの消化によって、分解されミミズの腸内酵素で各種の土壌菌に因って、益々の分解が進む。風が吹けば、桶屋が儲かるの自然界サイクルで、モグラが地中を動き回れば、地中の空気が通り、好気性微生物群が活性化して来る。
土中の慈養化には地中での生物相の頂点に立つのが『土竜』と云う事に為ろうから、決して名前負けをして居ない働きで在るから、庭をシェアする私としては、文句は言うべきでは無かろう。いやはや、困った物では在るが、地中帝国に在っては居無ければ為らない仕組みと云う事なので在る。コンニャローメ。
庭降りの目下の愉しみは、とうとうその時を迎えた自生ブドウの房付きの数と成長を確かめる事で在る。10程が確認されて来た。根無し芍薬の方も、小さいながら2芽が茎葉を伸ばして居る。日光に難は在る物の、最後に芽出しをしたジャンボ・カサブランカは、鬼ユリを従えて、君臨する伸びを見せて居るし、テッポーユリも一つのユリ群を作る様に成長目覚ましい物が在る。土手花壇に移植した物、買って来たカワラナデシコもすっかり根付いて、移植物からはピンク、白の花が咲き始めて居る。私は衰えが進む次第では在るが、植物達は手を掛ければ、素直に応えて呉れるから気分の保養と為る。
常緑照葉樹と云う言葉が在るが、柿の若葉に当たる陽光は、落葉ながら瑞々しい程の照葉の躍動感を魅せて呉れる。若葉、青葉、紅葉・黄葉、落葉と四季の国の区切り、移ろいの様は、歳を取れば取る程に自然の道に適った日本の協調性と際立ちを教えて呉れる次第で在る。
腹の空く朝飯までには時間が在るから、清々しい朝の空気に一歩きをして来る事を思い立つ。土手道には自転車通学の往来にして、高齢者の散歩姿が在る。大分伸びて来た河川敷の雑草を見ながら、水量の収まったやや笹濁りの流れに魚影は如何にの目を凝らすが、魚影は一切無しの流れ行きで在る。ムクドリが口に虫を咥えて飛んで行く。ツバメが低く高く飛翔して、セキレイ類も姿が無い。流れから上がって抱卵、子育て時を迎えて居るのだろう。
Uターンをして戻って来ると、前方に大きな雑種犬に曳かれて、常連さんの姿が在る。長兄の中学時の同級生さんと云う。小柄ながらも、背筋の通った元気な人で在る。形のデカイ雑種犬は私との相性が悪いらしく、私を見ると狂った様にガナリ立てる駄犬中の駄犬で在る。その癖、私に興味津々らしく尾を振り放しで在るから、如何やら雄の魅力度を競って居る風なので在る。
人間の私としては、手前は精々が国内基準のJISじゃろうが、こちとらはJIS女にぁ、一切見向きもされんが、国際規格のISO級で、ロシア女にぁ人気だったんじゃい。次元が違うんじゃい、次元が。
土台、俺様に張り合おうなんて『料簡』が、そもそも駄犬根性なんじゃい。馬鹿垂れが!!
まぁ、人間語と犬語とは理解不能の関係ながら、それはそれとして、大きな括りでは地球生物の共存者で在るからして、其れなりの生物としての以心伝心が伝播するなかでるから、目の表情を読めば、私と駄犬の共通項としては戯けの部分で、意志疎通が出来て居る次第なので在ろう。ギャハハ!!
ちょっとしたご近所さんボランティア要請が在って、車で付添に行って来る。平日午前中のスーパーは、高齢者さん達で客入りが多い。三割方は爺連で在る。高齢者達の買い物光景を見て居ると、殆どさんが『買い物メモ』に従って買い物をして居る。
男族と女族の買い物は、矢張り性別を現わして居る様で在る。何処となく嬉しそうに時間を掛けて買い物をして居る女族と、面白く無さそうにメモを見て事務的に買う男族の対比が、観察者としては為に成った次第でも在った。
女族の幼児遊びは飯事(ママゴト)遊び、男族はチャンバラ、戦争ゴッコを思い出せば、腑に落ちる次第で在る。
『汝ら、野のユリを見よ。ソロモンの栄華の極みだに、その装(よそお)い、このひともとのユリにしかざり』の一節は誰でもが知って居るイエスの言葉とのそうな。無信仰者ながら、その文学的表現の秀逸さは誰にも理解出来る。
それに則って、過去・現在・未来を考えると。
吾、振り返れば、悉(ことごと)く過去。前を向けば、悉く未来。
過去・未来の挟間に在って、現在は止まらざる一瞬の刹那為り。
在るは、確実な過去と未来在るのみ。人は現在の幅を、如何採るか?
流れる一瞬と採るか、分、時間、日、週、月、年と採るか?
唯一絶対など、世に存在する訳で無し。
無から生まれて幼小・少・青・壮・中・老を経て、無に還るのみ。
在るが儘に生きるのが、現在を生きる事なのかも知れぬ。
四季の国、八尾萬の国で生まれ育ち、齢も古希坂とも為れば、気候風土に受け継がれた民族遺伝子と云う物は、遺憾せん、輸入思想には体質的と云うか原初的に馴染まない物が多々在る様で在る。
さてさて、午後の部はギリシャ章を終了させて、ローマ章に漕ぎ付けると致そうか。
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