長駄文館・・・再打ちブログ為り。
- 2023/05/16
- 14:47
再打ちの本日分ブログ為り。(5/16/23)
何日振りかの、お天道さんの輝く朝で在る。雨で牡丹は好い処無しの終盤と成って仕舞ったが、雨を肥やしに芍薬が開花し始めた。牡丹、芍薬は、百合を加えて、愛での高い花々で在る。山国信州の春の開花ラッシュは、あれよあれよの間に通過して行く。色付いた苺を摘み、甲州ブドウ系の房を数えるのが、朝の愉しみと為って居る。
廊下の洗濯物を、物干しに移しての日光浴とする。土日労働の疲れも癒えて、お天道さんの輝きで、気温は昨日より10℃の上昇で夏日に向かうそうな。さてさてて、本日は如何過ごそうかで在る。
小部屋の睡蓮鉢に陽が入って、水草の繁茂する水面にグッピィ稚魚達が思い思いの場所で、浮上泳ぎをして居る。光合成で気泡が立ち昇る。庭と同じで、小さいながらも川の水を命の水として、シジミ、水草、グッピィが代を重ねての小世界を造って居る様は、観て居るだけで色んな想いとの交差で、想像が拡がって飽きない物で在る。
さてさて、腹も空いて来たから、先ずは何か見繕って朝飯を済ませて置くと致そうか。
身欠きニシンと昆布の煮しめの仕込みをしながらの、残り飯とおかずを見繕っての朝飯として、食器洗いと晩飯の米研ぎをしてオーライとする。
食後のお茶を持っての庭降りとする。今年は良質の川土に恵まれて、始まって以来の大量入れと相成った。『鉄は熱い内に打て』、『女族はホの字の内に、自分色に染めろ』に因んで、川土を庭土に為って貰う為には、土から芽を出す雑草を、悉く抜き取るのが肝要事で在る。元手ただの川土ながら、それを運んで庭土に調教して行くには、初年度が肝心で在る。別用語で云えば、川土を庭土に移行させるのが、『私の付加価値付け』と云う物で在る。
同じ地中から生える植物に、何ら変わらぬ次第では在るが、人間の庭とも為れば人間にとって、有用か否かで線引きをされ、雑草と判断されれば、芽を摘まれ、引き抜かれる。正に暇爺の私は、彼等にとっては『天敵の存在』と云った処で在ろう。
底辺貧民の自給自足の種蒔きも、小玉スイカ、時差採りを狙ってのキュウリ、ミツバ、インゲン2種の芽出しを待つだけと為って来た。目下の第一期生のべんり菜、チンゲン采、シュンギクが形を見せて来たし、後蒔きしたサラダレタスの想像以上の育ちに驚いて居る次第で在る。
ずーと探して居たラィターが出て来た。確かあの辺りに在る筈と、何度か探したのだが見付からずの物で在った。それと古い使い慣れた剪定鋏も、所定の位置に無くて、一時、使った辺りを何度と無く探し回っては見たが、見付からず新しい物を使って居るのだが、それが車の中から見付かって、『儲け気分』に為ったのだが、何しろ直近の物忘れ・健忘症が日々行進されて行く次第で、情けない事夥しい日々を送って居る次第で在る。
この文章も、一休みで保存した心算で在ったのだが、キー押しを間違えた様で保存されておらずの、再度打ちと為って仕舞った次第で在る。釣り落とした魚は大魚の喩えで、格落ちのブログで在ろうか。いやはや、困った物で在る。へへへ。
さてさて、大分仕切り直しで、午後の部に食い込んでは仕舞ったが、アリバイ工作で些か頁進めをして置かねば、昼寝も出来ない次第で在る。これを称して『自己責任』と云うそうな。
何日振りかの、お天道さんの輝く朝で在る。雨で牡丹は好い処無しの終盤と成って仕舞ったが、雨を肥やしに芍薬が開花し始めた。牡丹、芍薬は、百合を加えて、愛での高い花々で在る。山国信州の春の開花ラッシュは、あれよあれよの間に通過して行く。色付いた苺を摘み、甲州ブドウ系の房を数えるのが、朝の愉しみと為って居る。
廊下の洗濯物を、物干しに移しての日光浴とする。土日労働の疲れも癒えて、お天道さんの輝きで、気温は昨日より10℃の上昇で夏日に向かうそうな。さてさてて、本日は如何過ごそうかで在る。
小部屋の睡蓮鉢に陽が入って、水草の繁茂する水面にグッピィ稚魚達が思い思いの場所で、浮上泳ぎをして居る。光合成で気泡が立ち昇る。庭と同じで、小さいながらも川の水を命の水として、シジミ、水草、グッピィが代を重ねての小世界を造って居る様は、観て居るだけで色んな想いとの交差で、想像が拡がって飽きない物で在る。
さてさて、腹も空いて来たから、先ずは何か見繕って朝飯を済ませて置くと致そうか。
身欠きニシンと昆布の煮しめの仕込みをしながらの、残り飯とおかずを見繕っての朝飯として、食器洗いと晩飯の米研ぎをしてオーライとする。
食後のお茶を持っての庭降りとする。今年は良質の川土に恵まれて、始まって以来の大量入れと相成った。『鉄は熱い内に打て』、『女族はホの字の内に、自分色に染めろ』に因んで、川土を庭土に為って貰う為には、土から芽を出す雑草を、悉く抜き取るのが肝要事で在る。元手ただの川土ながら、それを運んで庭土に調教して行くには、初年度が肝心で在る。別用語で云えば、川土を庭土に移行させるのが、『私の付加価値付け』と云う物で在る。
同じ地中から生える植物に、何ら変わらぬ次第では在るが、人間の庭とも為れば人間にとって、有用か否かで線引きをされ、雑草と判断されれば、芽を摘まれ、引き抜かれる。正に暇爺の私は、彼等にとっては『天敵の存在』と云った処で在ろう。
底辺貧民の自給自足の種蒔きも、小玉スイカ、時差採りを狙ってのキュウリ、ミツバ、インゲン2種の芽出しを待つだけと為って来た。目下の第一期生のべんり菜、チンゲン采、シュンギクが形を見せて来たし、後蒔きしたサラダレタスの想像以上の育ちに驚いて居る次第で在る。
ずーと探して居たラィターが出て来た。確かあの辺りに在る筈と、何度か探したのだが見付からずの物で在った。それと古い使い慣れた剪定鋏も、所定の位置に無くて、一時、使った辺りを何度と無く探し回っては見たが、見付からず新しい物を使って居るのだが、それが車の中から見付かって、『儲け気分』に為ったのだが、何しろ直近の物忘れ・健忘症が日々行進されて行く次第で、情けない事夥しい日々を送って居る次第で在る。
この文章も、一休みで保存した心算で在ったのだが、キー押しを間違えた様で保存されておらずの、再度打ちと為って仕舞った次第で在る。釣り落とした魚は大魚の喩えで、格落ちのブログで在ろうか。いやはや、困った物で在る。へへへ。
さてさて、大分仕切り直しで、午後の部に食い込んでは仕舞ったが、アリバイ工作で些か頁進めをして置かねば、昼寝も出来ない次第で在る。これを称して『自己責任』と云うそうな。
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