長駄文館・・・本日は、これもペースダウンとする為り。
- 2019/06/21
- 11:42
本日は、スローペースで行くと致そうか。(6/21/19)
コンニヤローメ。勝手に鳴いて居ろ。俺は、未だ起きんぞ。
廊下鳥の声を聞きながら、昨日を振り返ったり、主本として居る教科書本の昨日読んだ個所のお浚い、西尾幹二、武田邦彦、田中英道先生の歴史講義などの反芻をしたりの脳内アイドリングを、朝のアイドリングとする。
人と話をして居るよりも、私としてはこの類方が、しっくりと来る性向で在る。一流の人の講義は思わず、膝を叩く箇所が多いが、膝を叩く迄には、聴く方も其れなりの知識の集積をして居ないと、『目から鱗』などと短絡的な月並表現に終わって仕舞うから、為に為らない。そんな一過性に終わって仕舞えば、歴史との対話が出来ないから、拝聴して居ても面白くは無い次第で在る。
不勉強だと、『先生、それを云うのなら、○○を引例した方が、好うござんすよ。』と、軽口を叩く愉しみが出て来ない。
総論を聴くには、聴く方に各論を知って居なければ為らないし、各論を聴くには総論を知って置かねば、其々が理解出来ない次第で在る。木を見て森を知り、森を見て木を知る。全体と個別のバランス感覚を蓄積して来ないと、所謂、講義の行間が伝わって来ないのが現実と云う物なので在る。
それが解かって来ないと、お三方先生の個性、思考感性と云った物が、先生方の歴史観に投影されて来ないので在る。総べからず、他者の話を聴く、伺う、聞くと云うのは、受け取る方の技量を問われる次第で在る。
昨日は郵便局の振込経由で個人スーパーで買い物をして、通りの向かいのシルバーセンターの手作りコーナーの展示販売コーナーを見ながら、野菜コーナーで美味そうなトマトを買って帰ろうとすると、小柄な爺さんが山菜の山蕗と筍を置きに来た。
レジの婆さんに『★さん、売り物なんだから、奇麗に置いて』と怒られて、『へいへい、おっか無ぇな。分かったよ。』と置き直して居る。爺さんは、小言を云われて、楽しそうな顔をして居る。
へへへ、これも爺さんと婆さんのコミニケーションの一駒なので在ろう。
「ほれ、今年最後の筍と山蕗だ。」の声に、山菜筍の美味い食べ方を爺さんに聞くと、皮のまま焼いて食べるのが一番だと云う。探して居た好物中の好物・山蕗で在る。
トマトを買うのを止めて、3束、最後と云うから1束を加えて4束を買う事にした。レジの婆さんは、『こぁ、大仕事だよ』と、私が4束を買うから、驚いて居る。『どうせ、する事が無いから、遣る事が出来たわね。』と応える。
幾ら好物とは云え、料理に掛かるとうんざりする程の量で在る。鍋に入る様に切って下茹でに回せば、鍋一杯の量で在る。下茹でして冷やして細い山蕗の皮剥きで在る。世界朗読テープをセットして来て、台所にどっかりと胡坐を掻いて、鍋を三個置いて、剥き滓、剥いた蕗の区訳をする。
『畑蕗』と異って、細いながらも山の野趣を食する山蕗のほろ苦いアクの強さは、好物中の好物で在る。好物に対して、『手間掛けの労を厭う』のは下衆の態で在る。
ひたすら剥き終えて、剥き滓はトマトの根の部分に被せて、今後の糧とさせる。今度は一口サイズ切りって、油で炒める。七味唐辛子をバンバン振り掛けて、和風、中華風、味の素を投入して炒め上がったら、水を加えて強火で炊き上げる。沸騰して来たら、砂糖に山椒醤油を投入して、中火、弱火で炊き込んで行く。火を止めて、味を染み込ませて、冷やして、また火を入れる。そんな繰り返しをして、佃煮風に仕上げて行く。
個人スーパーの女族連に云わせると、手を掛けて仕込んだ山蕗は、大量に作って、小出しにして食べるのが、『土地の常道』との由で在る。それに倣って、大タッパに入れて、熱冷ましの為に水に浸して置く。
世間では、私の事を男寡(おとこやもめ)なのに、マメだと云う。私からしたら解せぬ次第で在る。外で金を貰って仕事をするだけが能では在るまいし、自分の時間を気兼ね無く、自分の趣味、作り物、考え事に時間を費やす事の出来る事程、『贅沢な生き方』は無いと思うのだが、それが出来ないのは、そもそもが技量無しのする事と思うのだが、人は兎角、独りで居る事が不安、退屈と感じて居るらしいから、不思議な物で在る。
人付き合いは、気の弱い私にとっては、何かと相手、周囲に合わせねば為らないから、『気疲れ』がする物で在る。其処に行けば、DIYはマイペースで出来るから、ストレスが溜まらない『最良の方途』と考えるのだが、社会の実態は殊自分に関しては、ズク無しが多いらしい。
その癖、教師、上司の手前では真面目に宿題を提出し、ゴマを摺る事を厭わないので在るから、見下げた物では無いか。人間、ユニフォームを脱いだ時に、『自分のキャンパスに絵を描けるか、否か』の個の真価が、問われる次第で在ろう物を。ギャハハ!!
さてと起きると致そうか。障子を開ければ、東フェンスのキョウリの黄色い花が数珠繋ぎに目に入る。時季を得て、全てが頭角を現わして来た7本で在る。定数4に対して7と為って仕舞った次第で、今年はキュウリに次ぐキュウリの生りと為って仕舞う。如何すりぁ好いのよ~、先が思い遣られるの段では無いか。いやはや、困った次第で在る。
キュウリにインゲンと今夏は、ベジタリアンと為りそうで在る。とほほ。
さてさて、ゴミ出しをして来ると致そうか。本日、曇天の肌寒さで在る。シュンギクと矮小大根を採って、朝の具とする。肌寒さに、本日はスローペースで行くと致そうか。へへへ。
コンニヤローメ。勝手に鳴いて居ろ。俺は、未だ起きんぞ。
廊下鳥の声を聞きながら、昨日を振り返ったり、主本として居る教科書本の昨日読んだ個所のお浚い、西尾幹二、武田邦彦、田中英道先生の歴史講義などの反芻をしたりの脳内アイドリングを、朝のアイドリングとする。
人と話をして居るよりも、私としてはこの類方が、しっくりと来る性向で在る。一流の人の講義は思わず、膝を叩く箇所が多いが、膝を叩く迄には、聴く方も其れなりの知識の集積をして居ないと、『目から鱗』などと短絡的な月並表現に終わって仕舞うから、為に為らない。そんな一過性に終わって仕舞えば、歴史との対話が出来ないから、拝聴して居ても面白くは無い次第で在る。
不勉強だと、『先生、それを云うのなら、○○を引例した方が、好うござんすよ。』と、軽口を叩く愉しみが出て来ない。
総論を聴くには、聴く方に各論を知って居なければ為らないし、各論を聴くには総論を知って置かねば、其々が理解出来ない次第で在る。木を見て森を知り、森を見て木を知る。全体と個別のバランス感覚を蓄積して来ないと、所謂、講義の行間が伝わって来ないのが現実と云う物なので在る。
それが解かって来ないと、お三方先生の個性、思考感性と云った物が、先生方の歴史観に投影されて来ないので在る。総べからず、他者の話を聴く、伺う、聞くと云うのは、受け取る方の技量を問われる次第で在る。
昨日は郵便局の振込経由で個人スーパーで買い物をして、通りの向かいのシルバーセンターの手作りコーナーの展示販売コーナーを見ながら、野菜コーナーで美味そうなトマトを買って帰ろうとすると、小柄な爺さんが山菜の山蕗と筍を置きに来た。
レジの婆さんに『★さん、売り物なんだから、奇麗に置いて』と怒られて、『へいへい、おっか無ぇな。分かったよ。』と置き直して居る。爺さんは、小言を云われて、楽しそうな顔をして居る。
へへへ、これも爺さんと婆さんのコミニケーションの一駒なので在ろう。
「ほれ、今年最後の筍と山蕗だ。」の声に、山菜筍の美味い食べ方を爺さんに聞くと、皮のまま焼いて食べるのが一番だと云う。探して居た好物中の好物・山蕗で在る。
トマトを買うのを止めて、3束、最後と云うから1束を加えて4束を買う事にした。レジの婆さんは、『こぁ、大仕事だよ』と、私が4束を買うから、驚いて居る。『どうせ、する事が無いから、遣る事が出来たわね。』と応える。
幾ら好物とは云え、料理に掛かるとうんざりする程の量で在る。鍋に入る様に切って下茹でに回せば、鍋一杯の量で在る。下茹でして冷やして細い山蕗の皮剥きで在る。世界朗読テープをセットして来て、台所にどっかりと胡坐を掻いて、鍋を三個置いて、剥き滓、剥いた蕗の区訳をする。
『畑蕗』と異って、細いながらも山の野趣を食する山蕗のほろ苦いアクの強さは、好物中の好物で在る。好物に対して、『手間掛けの労を厭う』のは下衆の態で在る。
ひたすら剥き終えて、剥き滓はトマトの根の部分に被せて、今後の糧とさせる。今度は一口サイズ切りって、油で炒める。七味唐辛子をバンバン振り掛けて、和風、中華風、味の素を投入して炒め上がったら、水を加えて強火で炊き上げる。沸騰して来たら、砂糖に山椒醤油を投入して、中火、弱火で炊き込んで行く。火を止めて、味を染み込ませて、冷やして、また火を入れる。そんな繰り返しをして、佃煮風に仕上げて行く。
個人スーパーの女族連に云わせると、手を掛けて仕込んだ山蕗は、大量に作って、小出しにして食べるのが、『土地の常道』との由で在る。それに倣って、大タッパに入れて、熱冷ましの為に水に浸して置く。
世間では、私の事を男寡(おとこやもめ)なのに、マメだと云う。私からしたら解せぬ次第で在る。外で金を貰って仕事をするだけが能では在るまいし、自分の時間を気兼ね無く、自分の趣味、作り物、考え事に時間を費やす事の出来る事程、『贅沢な生き方』は無いと思うのだが、それが出来ないのは、そもそもが技量無しのする事と思うのだが、人は兎角、独りで居る事が不安、退屈と感じて居るらしいから、不思議な物で在る。
人付き合いは、気の弱い私にとっては、何かと相手、周囲に合わせねば為らないから、『気疲れ』がする物で在る。其処に行けば、DIYはマイペースで出来るから、ストレスが溜まらない『最良の方途』と考えるのだが、社会の実態は殊自分に関しては、ズク無しが多いらしい。
その癖、教師、上司の手前では真面目に宿題を提出し、ゴマを摺る事を厭わないので在るから、見下げた物では無いか。人間、ユニフォームを脱いだ時に、『自分のキャンパスに絵を描けるか、否か』の個の真価が、問われる次第で在ろう物を。ギャハハ!!
さてと起きると致そうか。障子を開ければ、東フェンスのキョウリの黄色い花が数珠繋ぎに目に入る。時季を得て、全てが頭角を現わして来た7本で在る。定数4に対して7と為って仕舞った次第で、今年はキュウリに次ぐキュウリの生りと為って仕舞う。如何すりぁ好いのよ~、先が思い遣られるの段では無いか。いやはや、困った次第で在る。
キュウリにインゲンと今夏は、ベジタリアンと為りそうで在る。とほほ。
さてさて、ゴミ出しをして来ると致そうか。本日、曇天の肌寒さで在る。シュンギクと矮小大根を採って、朝の具とする。肌寒さに、本日はスローペースで行くと致そうか。へへへ。
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