長駄文館・・・深夜、外は雨為り。
- 2019/07/14
- 13:26
深夜、外は雨為り。(7/14/19)
夕方散歩に出掛けると、雨が落ちて来た。班境の橋でUターンとすると、毎日、家の前を通る、黒い肥満体の芝犬散歩の常連さんとの挨拶と成る。
「苺は如何して居るんですか? それに大きな梅で。」
へへ、そんな事を云われて仕舞うと、無碍にも出来ないのが、私の性格で在る。
「苺は大豊作でね。しゃ~無い。野苺ジャムをプレゼントするわね。付いて来ましょや。」
「犬は其処に繋いで、俺の馬鹿絵でも見て行きましょや。」
「はい、じぁ、上がらせて貰います。」
私は冷蔵庫から、小瓶を一本持って来る。
「ウワァ~、こんな絵を描いてるんですか。見た目と違って、こんなに繊細な絵を描くんですね。画廊じゃないですか。何時も、机に向かってパソコンしてるから、普通の人とは違うと思って居たんだけど。凄い世界じゃ無いですか。」
「あいあい、遣る事が無いから、省エネで遊んで居る訳さね。強制連行して、どんな絵が好いか、アンケートしてるんだけど、どれが好いかいね。」
選んで呉れたのは、有名歌舞伎役者の訃報をラジオで聞いて、『隈取』をモチーフにして描いた物で在った。人は絵を見て、私は絵を見る人を観察して愉しむ次第で在る。アハハ。
感じ方、好みは、人其々に違う。目で見る物は、直接的に人の胸のノックと為る。絵にノックされて、胸、心の感想が言葉に成る。見て、感じて、言葉に出す・・・こんな単純明快な反応は得られない次第で在る。絵を描くも自由、どの絵を選ぶも自由。その自由さの中に、その人が現れる。面倒が無くて、好い次第で在る。
「庭の梅は、其処の焼酎瓶に入ってるわね。」
「大きくて、見事ですね。」
「今年は裏年で数が生らなかったけど、来年は生り年だから、欲しかったら採りに来れば好いんね。未だ漬かりは浅いけど、味見して行くかいね。」
「是非。」
そんな次第で、冷蔵庫から大タッパの梅漬けを持って来て、味見をして貰う。
「ウワァ~、酸っぱい。でも昔ながらで、美味しい。これは大きくて立派。来年は貰いに来ます。」
そんな次第で、不発に終わった夕刻散歩では在ったが、これも町内お付き合いの一環でも在ろう。夕食後は面白い動画も無く、頁捲りとするが、気が乗らず、早々に寝て仕舞った。トイレ起き時には、少々小難しい夢を見て居て、脳味噌の疲労を感じて、寝直しの態で在った。
それでも、余りの早寝で二度目の夢を見たのを、機に起きる事にする。2時で在るか。少し寝てから、洗い物、米研ぎをしようと思って居て、寝入って仕舞った次第で在るから、それをして、腹が減って居るから、天理教さんから頂いた素麵を茹でて、啜った次第で在る。
こんな処が、独り生活の好い処で在る。Yは料理が苦手で面倒臭いと云うが、私は食いしん坊の根が、幸いして別段の億劫さを感じない次第で在る。作って食べるは、これまた面白い物でも在る。作って食べるので在るから、其れなりの手間は当然要するが、全身全霊を以ってする訳では無い。頭は自由で在る。遣れば遣った分の、それなりのプラン⇒ドゥ⇒スィー⇒チェックも働こうとし云う物で在る。
女族に出来る事が男族に出来ない事は、殆ど無い。子供を産む事は男族には絶対不可能にしても、種付けは男族の専属行為なので在るから、云って見れば男女の役割分担で在る。
ラジオ深夜便を聴きながら、本日分ブログを打ちながら、二度寝の眠りを待つ。外は雨で在る。
回りからは、独りなのに色々とマメにこなして居るとの『驚き』を頂戴するが、一日24時間は万人に等しく平等で在る。テレビ、新聞などに充てる時間を完全にカットして居るから、実際の処、それが出来て居るので在る。
そして、テレビを見なく為って、気付かされる事は、如何にテレビを見る事はエネルギーの消耗が多いかで在った。テレビを見る事の目の疲労は、真に大きい。其処へ行けば、ラジオ聞きは省エネ、時間の使い回しが効く重宝な物で在る。
Yの言では無いが、電話の方が話に集中出来るとは『彼の実感語』で在る。
私は薬とは普段は無縁で在るから、前立腺肥大症の薬を飲んだら、如意棒萎えて、頭髪蘇りの副作用も無く、如意棒は其れなりに健全で在るが、使う相手無しの女日照りの更新中なだけで在る。一本線殿も前立腺肥大の副作用を、身を持って実感して居ると云うし、三級上の先輩さんも前立腺肥大との由。
私は60数点の戯画廊は、吾が分身部屋の居心地の好さなので在るが、Yにしたら如意棒萎えるも、煩悩退かずの『妄想の巣窟』で、話が集中出来ないの禍(わざわい)を招来させて居るのだろう。
サラリーマン時代は、禅寺で座禅を組んで修行して居たと自負する処では在るが、其れ程までに、Yの『内為る煩悩』は強かったと云う証左でも在ろうか。
人間は、私もそうで在るが、自分のフィルターを通してしか、他者を理解出来ない偏狭な生き物でしか無い存在で在る。主観が客観を得るには、『修行』が必要で在る事は、紛れも無い現実で在る。
それを自己の中に相対する他者をバランス好く共存させる事で、自問自答の精度を高めるか、正論、真理と云う名の絶対的先達の思想に『解』を求めるかの違いなのだろう。仏教、儒教に関しては、一家言を持つと云うYで在る。
仏教で云えば、自力本願と他力本願。儒教で云えば陽明学の知行合一で、それらは事を極める人間の選択肢の双壁を為すアプローチ法と云って好かろう。有名、無名にしろ、好い物は好いので在るからして、『吾思うが故に、吾在り』の方が、刷り込みを排して、己が努力度の観点からして臍曲がりの『私の流儀』に合う次第で在る。
昔好きで好く見て居たNHK教育テレビに、『試して見ないと解らない』科学実験?と云う学童向け番組が在った次第で在る。へへへ。
漸く眠気が差して来て、睡眠補充をして、風呂に入ってシャキッとさせる。鳥籠を洗って、奇麗にして遣った後は、キリギリス達に青トマトと熟しトマトを与えて、観察とする。削り節もたんまりと与えて遣る。キュウリ、スモモを採って、仏壇に供えて置く。
雨は止んだが、滴満載で在るから、実を終えた枇杷の枝切りをしたい処では在るが、今日はパスするしか無い。楓の枝葉もツンツン伸びて来て居るし、草抜きもしなければ為らない。何やかやと、管理人にはする事が出て来る物で在る。本日は、これから正午を迎える次第で在る。
さてさて、昨日出来なかった散歩をして来ると致そうか。良習慣は維持すべきで在る。雨後の蒸し暑さは、矢張り梅雨の裏には夏が進行して居るの構図で在る。
花を終えてオオキンケイギクの種子啄みに来て居るのだろう、カワラヒワの若鳥の群れ、河川敷にはムクドリの若群れが居て、蝶が飛んで居る。採る人の居ない熟し梅、杏の落ち、アメリカシロヒトリのに喰われた枯れ葉などを見遣りながら、Uターンの橋を渡って草刈機の入った河川敷に下りる。
今年は黒い羽根の青筋イトトンボの大発生らしく、その数の多さに、足を止める。川面をシオカラトンボが飛行して居る。梅雨明けとも成れば、オニヤンマが流れを、往復飛びをする夏の到来で在る。
無風の蒸し暑さは、蛇の好む状況で在ると云うから、目配りを怠り無く河川敷を進む。蛇遭遇の無い事は、好い事では在るが、今年は一度も蛇と遭遇して居ないので、些か心配に成って来る。蛇との遭遇が無いから、大きな口を叩いて居るだけの事で在る。へへへ。
散歩の後半は、半そでシャツを脱いでのTシャツ一枚の汗歩行で在る。娑場では三連休の中日で在る。雨の止みに、外出の車が多い。
ジョギングをする人、散歩をする人、ご近所さん立ち話をする人と、何れも雨の鬱陶しさから解放されての外の空気の美味さと云う処で在ろうか。遺憾いかん、洗濯途中で在った。帰ったら、忘れずに洗濯を完了すべしで在る。
夕方散歩に出掛けると、雨が落ちて来た。班境の橋でUターンとすると、毎日、家の前を通る、黒い肥満体の芝犬散歩の常連さんとの挨拶と成る。
「苺は如何して居るんですか? それに大きな梅で。」
へへ、そんな事を云われて仕舞うと、無碍にも出来ないのが、私の性格で在る。
「苺は大豊作でね。しゃ~無い。野苺ジャムをプレゼントするわね。付いて来ましょや。」
「犬は其処に繋いで、俺の馬鹿絵でも見て行きましょや。」
「はい、じぁ、上がらせて貰います。」
私は冷蔵庫から、小瓶を一本持って来る。
「ウワァ~、こんな絵を描いてるんですか。見た目と違って、こんなに繊細な絵を描くんですね。画廊じゃないですか。何時も、机に向かってパソコンしてるから、普通の人とは違うと思って居たんだけど。凄い世界じゃ無いですか。」
「あいあい、遣る事が無いから、省エネで遊んで居る訳さね。強制連行して、どんな絵が好いか、アンケートしてるんだけど、どれが好いかいね。」
選んで呉れたのは、有名歌舞伎役者の訃報をラジオで聞いて、『隈取』をモチーフにして描いた物で在った。人は絵を見て、私は絵を見る人を観察して愉しむ次第で在る。アハハ。
感じ方、好みは、人其々に違う。目で見る物は、直接的に人の胸のノックと為る。絵にノックされて、胸、心の感想が言葉に成る。見て、感じて、言葉に出す・・・こんな単純明快な反応は得られない次第で在る。絵を描くも自由、どの絵を選ぶも自由。その自由さの中に、その人が現れる。面倒が無くて、好い次第で在る。
「庭の梅は、其処の焼酎瓶に入ってるわね。」
「大きくて、見事ですね。」
「今年は裏年で数が生らなかったけど、来年は生り年だから、欲しかったら採りに来れば好いんね。未だ漬かりは浅いけど、味見して行くかいね。」
「是非。」
そんな次第で、冷蔵庫から大タッパの梅漬けを持って来て、味見をして貰う。
「ウワァ~、酸っぱい。でも昔ながらで、美味しい。これは大きくて立派。来年は貰いに来ます。」
そんな次第で、不発に終わった夕刻散歩では在ったが、これも町内お付き合いの一環でも在ろう。夕食後は面白い動画も無く、頁捲りとするが、気が乗らず、早々に寝て仕舞った。トイレ起き時には、少々小難しい夢を見て居て、脳味噌の疲労を感じて、寝直しの態で在った。
それでも、余りの早寝で二度目の夢を見たのを、機に起きる事にする。2時で在るか。少し寝てから、洗い物、米研ぎをしようと思って居て、寝入って仕舞った次第で在るから、それをして、腹が減って居るから、天理教さんから頂いた素麵を茹でて、啜った次第で在る。
こんな処が、独り生活の好い処で在る。Yは料理が苦手で面倒臭いと云うが、私は食いしん坊の根が、幸いして別段の億劫さを感じない次第で在る。作って食べるは、これまた面白い物でも在る。作って食べるので在るから、其れなりの手間は当然要するが、全身全霊を以ってする訳では無い。頭は自由で在る。遣れば遣った分の、それなりのプラン⇒ドゥ⇒スィー⇒チェックも働こうとし云う物で在る。
女族に出来る事が男族に出来ない事は、殆ど無い。子供を産む事は男族には絶対不可能にしても、種付けは男族の専属行為なので在るから、云って見れば男女の役割分担で在る。
ラジオ深夜便を聴きながら、本日分ブログを打ちながら、二度寝の眠りを待つ。外は雨で在る。
回りからは、独りなのに色々とマメにこなして居るとの『驚き』を頂戴するが、一日24時間は万人に等しく平等で在る。テレビ、新聞などに充てる時間を完全にカットして居るから、実際の処、それが出来て居るので在る。
そして、テレビを見なく為って、気付かされる事は、如何にテレビを見る事はエネルギーの消耗が多いかで在った。テレビを見る事の目の疲労は、真に大きい。其処へ行けば、ラジオ聞きは省エネ、時間の使い回しが効く重宝な物で在る。
Yの言では無いが、電話の方が話に集中出来るとは『彼の実感語』で在る。
私は薬とは普段は無縁で在るから、前立腺肥大症の薬を飲んだら、如意棒萎えて、頭髪蘇りの副作用も無く、如意棒は其れなりに健全で在るが、使う相手無しの女日照りの更新中なだけで在る。一本線殿も前立腺肥大の副作用を、身を持って実感して居ると云うし、三級上の先輩さんも前立腺肥大との由。
私は60数点の戯画廊は、吾が分身部屋の居心地の好さなので在るが、Yにしたら如意棒萎えるも、煩悩退かずの『妄想の巣窟』で、話が集中出来ないの禍(わざわい)を招来させて居るのだろう。
サラリーマン時代は、禅寺で座禅を組んで修行して居たと自負する処では在るが、其れ程までに、Yの『内為る煩悩』は強かったと云う証左でも在ろうか。
人間は、私もそうで在るが、自分のフィルターを通してしか、他者を理解出来ない偏狭な生き物でしか無い存在で在る。主観が客観を得るには、『修行』が必要で在る事は、紛れも無い現実で在る。
それを自己の中に相対する他者をバランス好く共存させる事で、自問自答の精度を高めるか、正論、真理と云う名の絶対的先達の思想に『解』を求めるかの違いなのだろう。仏教、儒教に関しては、一家言を持つと云うYで在る。
仏教で云えば、自力本願と他力本願。儒教で云えば陽明学の知行合一で、それらは事を極める人間の選択肢の双壁を為すアプローチ法と云って好かろう。有名、無名にしろ、好い物は好いので在るからして、『吾思うが故に、吾在り』の方が、刷り込みを排して、己が努力度の観点からして臍曲がりの『私の流儀』に合う次第で在る。
昔好きで好く見て居たNHK教育テレビに、『試して見ないと解らない』科学実験?と云う学童向け番組が在った次第で在る。へへへ。
漸く眠気が差して来て、睡眠補充をして、風呂に入ってシャキッとさせる。鳥籠を洗って、奇麗にして遣った後は、キリギリス達に青トマトと熟しトマトを与えて、観察とする。削り節もたんまりと与えて遣る。キュウリ、スモモを採って、仏壇に供えて置く。
雨は止んだが、滴満載で在るから、実を終えた枇杷の枝切りをしたい処では在るが、今日はパスするしか無い。楓の枝葉もツンツン伸びて来て居るし、草抜きもしなければ為らない。何やかやと、管理人にはする事が出て来る物で在る。本日は、これから正午を迎える次第で在る。
さてさて、昨日出来なかった散歩をして来ると致そうか。良習慣は維持すべきで在る。雨後の蒸し暑さは、矢張り梅雨の裏には夏が進行して居るの構図で在る。
花を終えてオオキンケイギクの種子啄みに来て居るのだろう、カワラヒワの若鳥の群れ、河川敷にはムクドリの若群れが居て、蝶が飛んで居る。採る人の居ない熟し梅、杏の落ち、アメリカシロヒトリのに喰われた枯れ葉などを見遣りながら、Uターンの橋を渡って草刈機の入った河川敷に下りる。
今年は黒い羽根の青筋イトトンボの大発生らしく、その数の多さに、足を止める。川面をシオカラトンボが飛行して居る。梅雨明けとも成れば、オニヤンマが流れを、往復飛びをする夏の到来で在る。
無風の蒸し暑さは、蛇の好む状況で在ると云うから、目配りを怠り無く河川敷を進む。蛇遭遇の無い事は、好い事では在るが、今年は一度も蛇と遭遇して居ないので、些か心配に成って来る。蛇との遭遇が無いから、大きな口を叩いて居るだけの事で在る。へへへ。
散歩の後半は、半そでシャツを脱いでのTシャツ一枚の汗歩行で在る。娑場では三連休の中日で在る。雨の止みに、外出の車が多い。
ジョギングをする人、散歩をする人、ご近所さん立ち話をする人と、何れも雨の鬱陶しさから解放されての外の空気の美味さと云う処で在ろうか。遺憾いかん、洗濯途中で在った。帰ったら、忘れずに洗濯を完了すべしで在る。
スポンサーサイト